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絶対に部屋から出てはいけないよ――そう言い置いて階下に降りて行った兄は、未だに戻って来ない。
両親が友人の通夜で遅くなり、彼女は母が用意して行った夕食を食べ、寝支度を整えて二階の部屋に上がったのだが……ふと気付けば、誰も居ない筈の階下から物音がする。
両親が帰った様子はなかった。
遅くなるから先に休むようにと言われており、また眠気を覚えてもいた。それでも、心細さもあって、両親の帰りを今か今かと待っていたのだ。車がガレージに入る音を聞き逃す筈がない。
ドアが開いた音もしなかった。
それなのに誰かが居るとしたら、きっと腕利きの怪盗に違いない――物音に不安を覚え、表通りに面した兄の部屋を訪れて悲鳴をあげそうになった妹に、兄はそう言って、静かにするようにと、指を一本立てた。
そうして、様子を見て来ると、妹を部屋に残して行ったのだ。
それから幾度も時計を見るが、兄は一向に戻って来ず、またあれ以来、物音も聞こえない。
「どうしちゃったんだろう……?」心細げに、口の中で呟く。
何も無かったのなら、一通り家の中を見回ったら、戻って来る筈。
真逆、本当に怖い人が居て、捕まったのだろうか?
だが、それにしては静か過ぎる。もしそうなら兄はきっと、近所の人の助けを求めて騒ぎ立てている――それ位は幼い妹にも、解る。
それとも、もしかしたら両親がいつの間にか帰っていた?
いや、それなら妹を安心させる為に、笑顔でそう告げに上がって来る筈だ。あるいはやはり笑顔が目に浮かぶ様な声で、彼女を呼ぶ筈。
本当にどうしちゃったんだろう?――不安な思いで、妹は閉ざされた儘のドアを見詰めた。
状況が解らない儘、下に降りるのも怖いが、此処に居続けるのも怖い。
もしかしたら怖い人が足音を忍ばせて階段を上り詰め、もうそのドアの向こうに潜んでいるのかも知れない。もしかしたら、次の瞬間には、この鍵も無いドアを押し破って入って来るかも知れない――そんな恐怖に、妹は椅子の陰に隠れて身を縮こまらせた。
じっと、ドアを見詰めた儘……。
それでも七歳の子供にとって、長時間に亘って緊張を持続するのは困難だった。
何度か隠れ家から立ち上がって、ドアに耳を付け、何の物音もしない事に安堵と不安という相反する感情を覚えながら、また隠れる、そんな事を繰り返した。
兄は未だ、戻って来ない。
時計を見遣れば、その針は遅々として進んでいない。とすれば実際にはそれ程長い時間ではないのだろう。だが、彼女にとってみれば、それは非常に長く、そして心細い時間だった。
と、その静けさが崩れたのは、深夜、ガレージのドアが開く音によってだった。
「帰って来た……!」小さく口の中で叫び、彼女は椅子の陰から飛び出した。窓際の綺麗に整えられたベッドによじ登り、外を窺う。間違いない。この部屋からならよく見える。門灯に照らされているのは、父の車だ。
急いで駆け出そうとして、ふと、ドアの前で立ち止まる。
「そうだ、お兄ちゃんが絶対に出ちゃいけないって……」
絶対に――でも、両親が帰って来たのだ。怖い事はもう何もない。
彼女は意を決して、ドアを開けた。
そうして一歩、部屋から足を踏み出した時、言い様のない違和感を感じた。
「あれ……お兄ちゃんって……?」部屋を振り返り、彼女は呟いた。「あたし、何でお兄ちゃんを待ってたんだろう?」
お兄ちゃんは、あたしが生まれる前に事故で死んだのに――首を傾げる彼女の耳にはしかし、聞いた事のない筈の兄の声が残っていた。
会った事もない、それでも彼を亡くした両親の後悔からか、こうして未だに部屋が残されている、兄。学習机の上ではどこかで会った気がする少年が、朗らかに笑っている。
そう、会った事もない――でも、知っている気がする。彼女は混乱しながらも、兄の存在を感じていた。
だが、それも、階上の気配に気付いた両親が彼女の名を呼ぶ迄の僅かの間の事。
「さやか? 未だ起きてるのか?」
「さやちゃん、絵本が床に落ちてるわよ? 安定の悪い所に置いちゃ駄目って言ったでしょ?」
「ごめんなさーい、ママ」あの音は絵本が置いていたソファの端から落ちた音だったのかと、安堵しながら、彼女は階段を駆け下りた。
その背を、寂しそうな眼をした少年が見送っている事など、気付かずに。
彼はほんの少し、今を生き続ける妹に、自分の存在を感じて欲しかっただけだった――こうして、此処に繋ぎ止められているのだと。
―了―
今日も眠い。
居場所があると、やはり想いも残り易いかも?