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さぁ、帰ろう――そう会社の玄関を出た時、悟は何か違和感を覚えた。
いつもの街並み。いつもの道。その筈なのだが、見慣れた景色の中の何かが引っ掛かる。
オフィス街を突っ切る大通り。激しく走り抜ける車の川。その対岸の軒の低い、馴染みの街並み。
そうだ、今日もあの店に寄って帰ろう――その懐かしさに思わず違和感の正体を探る事も忘れ、悟は足取り軽く歩き出した。この所痛むようになった膝も、今は滑らかに動いてくれている。不思議な位に。
軒の低い、古惚けた玩具店。蛍光灯の考量が足りないのか、林立する棚の所為なのか、店内は薄暗い
それでも通い慣れた悟は迷う事も棚の前に迄平積みされた箱に躓く事もなく、お目当てのプラモデルが置かれた一角に直行する。
売る気があるのか、展示用なのか。子供が手にするには高価過ぎる機関車や戦車――かつて恨めしげに見上げた値札が今は……。
「これなら……」悟は財布の中身を思い出してみた。この店、カードは使えないよな。それでも、朝確認した時にはこれだけあって、昼飯はワンコインのコンビニ弁当で……。何とかなりそうじゃないか。何で今迄買わなかったんだ?
と――悟が新品の箱に手を伸ばそうとした時だった。
「駄目だよ」おっとりとした、どこか眠たそうな声がそれを押し留めた。
思わず振り返って見れば、いつ来たものか悟の背後に一人の少女。十五、六だろうか。所々寝癖の付いた髪に、眠たそうに半ば瞼の下りた眼――それらさえちゃんとすれば可愛いのにと、悟は要らぬ事を考えた。
その少女はやはり眠たげな顔で、しかし笑みを浮かべた。
「君は……この店の人?」悟は尋ねた。確か老夫婦が細々とやっている店だったが、もしかしたら孫か何かが手伝いにでも来ているのかも知れない。
が、相手は肯定も否定もせず、不意に彼の手を引っ張った。
「お、おい?」不審気な声を上げた悟にも構わず、彼を玩具店から引っ張り出す。名残惜しげに機関車を見遣るのもお構いなしだ。
その強引さに抗議しようとした悟だが、それより先に少女が口を開いた。
「変だと思わないかな? おじさん」
「何がだい?」おじさんと呼ばれても反論も出来ない自分の年齢を思い知りながら、悟は尋ねた。
「二宮悟。四十六歳。関東のとある下町に生まれ育ち、二十歳を過ぎてから都会で一人暮らしを始める。その後、都心のオフィス街で仕事を得、家庭を持ち――今に至る」すらすらと、非常に大雑把ではあるが、悟の生い立ちを語っていく。
「な、何で……」気味の悪い、そして居心地の悪い思いで悟は質す。彼女とは初対面の筈だ。何故、彼の名前や生い立ちを知っている?
が、少女はそんな事はどうでもいいと言わんばかりにそれを無視し、話を続けた。
「変だよね? あの店はおじさんが子供の頃に足繁く通った、とある下町にあった店。遠く離れた都会のオフィス街からの帰り道に寄れる様な所じゃあないよね」
あ、と悟は声を上げていた。
そうだ。至って自然に脚を向けたけれど、あそこは遠い故郷の店。然も数年前の帰省の際、何気なくぶらついた商店街にすっかり寂れて扉を閉ざしたあの店を見たではないか。聞いた話では店主である夫を亡くした老婦人は、子供もなく、一人、老人介護施設へ行ったと言う。
「じゃあ、あの店は……あの街並みは……」
「夢、だよ」きっぱりと、少女は言った。
「夢……」悟は思わず、自分の手をじっと見詰める。少女に引っ張られた手。確かに暖かく力強い感触があった――そう感じたのに。
だが、夢だと知覚したからだろうか。目の前の古びた街並みが、あの店が急速に遠ざかって行く。
そうか、夢か――些か寂しい思いで、悟はそれを見送った。
「夢の中で行きたいと思っていた所へ行った、あるいは昔馴染みだった場所へ行った――まぁ、誰でも経験ある事だと思うけどね」
少女の言葉に悟は頷いた。
そう。思い返してみれば夢の中では距離も時間も跳び越えて、自宅で母に怒鳴られていたり、恩師に会っていたり、そんな事は度々だった。今回程にはっきりした夢はそうそうないが。それともこの夢も、目覚めればやはり茫洋とした記憶の一つとなるのだろうか。
悟が苦笑と共にそう言うと、少女は頷いた。
「それでいいんだよ。此処は現の裏側。迷い込む事はあっても、留まっちゃいけない所。このアンバランスな街並みはおじさんだけの、眠りの都」
「眠りの……都」
「でも、この世界の物を手にする事は出来ないんだよ。どれだけ正確に記憶の中から抽出、再現されていても、それは許されないの」
「だからさっき駄目だって……? しかし、何故?」
「……この都に取り込まれちゃうから。此処で食べ物なんか食べるともう二度と現に戻れなくなるよ?」
御馳走が並べられて、さぁ、食べよう、と思ったら目が覚めて悔しい思いをした――これもよく聞く夢だ。
だが、もし食べていたら……。
「あれももしかして、君が止めてくれていたのかい?」苦笑交じりの悟の言葉に、少女もふと、苦笑いした。
「私か、他の誰かか――自分の眠りの都に留まってしまったお馬鹿さんが現を懐かしんでちょっと手を貸してみたのかもね」
「君は……!」思わず声を上げた悟の胸を、不意に少女の手が突いた。
「もう戻って。ちゃんと目を覚ますのよ?」
その眠たげな表情が遠ざかり、オフィス街もが遠ざかり――そして悟は目を覚ました。
覚醒して真っ先に目に入ったのは、心筋梗塞で倒れた彼を心配げに見下ろす妻と娘の顔だった。
「帰ったよ」酸素マスクの下で、彼はそう告げた。
―了―
偶に昔の馴染みの本屋(大阪の)に居ます。ええ、夢の中で。