〈2007年9月16日開設〉
これ迄の小説等、纏めてみたいかと思います。主にミステリー系です。
尚、文責・著作権は、巽にあります。無断転載等はお断り致します(する程のものも無いですが)。
絵師様が描いて下さった絵に関しましても、著作権はそれぞれの絵師様に帰属します。無断転載は禁止です。
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舟を出して欲しいんですが――怯えを含んでいるとさえ言っていい控え目な声に、黒い布を頭から被った船頭は、ゆらりと振り返った。目深に被った布に覆われたその表情は窺い知れない。只、体格からして男性の様だった。
その彼に恐る恐る声を掛けたのは、未だ若い女性。十代後半だろうか。長い黒髪を三つ編みにし、両肩に垂らしている。一見して真面目で大人しそうな印象だった。
彼女はもう一度、言った。舟を出して頂けませんか、と。
暗い川と、二、三人が乗るのがやっとだろう大きさの舟、そしてその船頭を前にして。
「嬢ちゃん、悪いが今はこっち側からは乗せる時期じゃないんだ。もう少し、待ってくれないか」船頭は言った。
怪しい風体なのは自覚している。こんな大人しそうな女の子からすれば、声を掛けるのも勇気が要るだろう。況して自分は、彼女をこっち側へ運んで来たものなのだから。
それを察しても尚、彼の立場では、断らざるを得ない。私情で特例を設けるなどあってはならないのだ。
断りの言葉に怯んだ彼女だったが、両手をぎゅっと握り合わせ、意を決した面持ちで再度、懇願した。
「お願いします。舟を……舟を出して下さい」
「弱ったな。嬢ちゃん、これは決まりなんだ。この時期のわしの仕事は、あっち側から人を運んで来るだけ――あんたを運んで来た時の様にな」
びくり、彼女の肩が震えた。三箇月前に未だ若くして、この舟に乗せられた時の事を、思い出したのだろう。
「でも……どうしても、行きたい場所があるんです。ほんの少しの時間でいいんです。お願い出来ませんか?」
弱ったな――船頭は頭を掻いた。
「盆迄待てないのかい? もうほんの一、二箇月じゃないか」
彼女は重々しい溜息をついて、頭を振った。
「参ったな……。何処に行きたいって言うんだい?」訊くだけだからな、と念を押しつつ、船頭は問うた。
少し顔を上げて、彼女は答えた。
「私が、死んだ場所」
三箇月前の春の日、彼女は桜の花の下、突然倒れ、意識も戻らぬ儘に他界した。
気が付けば暗い川岸に立つ、身体を喪った彼女の前に現れたのは件の船頭の操る舟。自分が死んだのだと自覚したのは船頭の頭から被る布の奥の顔を見た時だったろうか。暗く眼窩の落ちた、白い骨を。
これが三途の川というものなのかと、暗い川面を見ていた時から、この日に帰る事を考えていた。
独りでなど、行きたくないと。
「あの時……姉が一緒に居たんです。私は昔から身体が弱くて、外出の時にはよく姉が付き添ってくれていました。もしもの時には直ぐに対応出来るようにって……。なのに、あの日、突然の息苦しさと胸の痛みを訴えた私を、姉は只……只見下ろすばかりでした。立ち上がる事も出来ずにいる私を……。姉は私を見殺しにしたんです。きっと、私が邪魔だったんです……。面倒見のいい姉を演じながら、私さえ居なければって……!」
「お、おいおい……」次第に興奮し始めた彼女を、船頭は宥めた。「そうとは限らないだろう? 予め知識だけは与えられていても、いざ緊急の病人を前にしたら何も出来ない医者の卵の例だってある」
「でも……!」
尚言い募ろうとした彼女を、片手を上げて船頭は遮った。
「ちょっと待った。仕事だ。またあっちからお客さんを乗せなきゃならねぇ」
「なら……!」彼女は勢い込んで言った。「あっちへ行くのなら私も乗せて行って下さい! 少しの間でいいんです。姉に……姉に言いたいだけなんです――人殺し……って」
「……」船頭は黙って彼女に背を向け、一人、舟に乗り込んだ。
待ってと声を上げる彼女を残し、船を漕ぎ出す。
川の中程迄進んだ時、彼は振り返って声を上げた。
「本当はこういう事も教えちゃいかんのだがなぁ……。これから迎えに行く女は三箇月前に妹を喪って、心を病み、食事さえ摂れずに痩せ細った挙句に亡くなったそうだ」
「……!?」
「桜の木の下でな」
「まさ……か……」蒼褪めた顔で、彼女は呟く。
「ま、此処に来ちまった以上、時間はたっぷりあるんだ。嬢ちゃんにも、姉さんにもな」
暗い川面に大きくも静かな波紋を残して、舟は去って行った。
―了―
暑い暑い。
その彼に恐る恐る声を掛けたのは、未だ若い女性。十代後半だろうか。長い黒髪を三つ編みにし、両肩に垂らしている。一見して真面目で大人しそうな印象だった。
彼女はもう一度、言った。舟を出して頂けませんか、と。
暗い川と、二、三人が乗るのがやっとだろう大きさの舟、そしてその船頭を前にして。
「嬢ちゃん、悪いが今はこっち側からは乗せる時期じゃないんだ。もう少し、待ってくれないか」船頭は言った。
怪しい風体なのは自覚している。こんな大人しそうな女の子からすれば、声を掛けるのも勇気が要るだろう。況して自分は、彼女をこっち側へ運んで来たものなのだから。
それを察しても尚、彼の立場では、断らざるを得ない。私情で特例を設けるなどあってはならないのだ。
断りの言葉に怯んだ彼女だったが、両手をぎゅっと握り合わせ、意を決した面持ちで再度、懇願した。
「お願いします。舟を……舟を出して下さい」
「弱ったな。嬢ちゃん、これは決まりなんだ。この時期のわしの仕事は、あっち側から人を運んで来るだけ――あんたを運んで来た時の様にな」
びくり、彼女の肩が震えた。三箇月前に未だ若くして、この舟に乗せられた時の事を、思い出したのだろう。
「でも……どうしても、行きたい場所があるんです。ほんの少しの時間でいいんです。お願い出来ませんか?」
弱ったな――船頭は頭を掻いた。
「盆迄待てないのかい? もうほんの一、二箇月じゃないか」
彼女は重々しい溜息をついて、頭を振った。
「参ったな……。何処に行きたいって言うんだい?」訊くだけだからな、と念を押しつつ、船頭は問うた。
少し顔を上げて、彼女は答えた。
「私が、死んだ場所」
三箇月前の春の日、彼女は桜の花の下、突然倒れ、意識も戻らぬ儘に他界した。
気が付けば暗い川岸に立つ、身体を喪った彼女の前に現れたのは件の船頭の操る舟。自分が死んだのだと自覚したのは船頭の頭から被る布の奥の顔を見た時だったろうか。暗く眼窩の落ちた、白い骨を。
これが三途の川というものなのかと、暗い川面を見ていた時から、この日に帰る事を考えていた。
独りでなど、行きたくないと。
「あの時……姉が一緒に居たんです。私は昔から身体が弱くて、外出の時にはよく姉が付き添ってくれていました。もしもの時には直ぐに対応出来るようにって……。なのに、あの日、突然の息苦しさと胸の痛みを訴えた私を、姉は只……只見下ろすばかりでした。立ち上がる事も出来ずにいる私を……。姉は私を見殺しにしたんです。きっと、私が邪魔だったんです……。面倒見のいい姉を演じながら、私さえ居なければって……!」
「お、おいおい……」次第に興奮し始めた彼女を、船頭は宥めた。「そうとは限らないだろう? 予め知識だけは与えられていても、いざ緊急の病人を前にしたら何も出来ない医者の卵の例だってある」
「でも……!」
尚言い募ろうとした彼女を、片手を上げて船頭は遮った。
「ちょっと待った。仕事だ。またあっちからお客さんを乗せなきゃならねぇ」
「なら……!」彼女は勢い込んで言った。「あっちへ行くのなら私も乗せて行って下さい! 少しの間でいいんです。姉に……姉に言いたいだけなんです――人殺し……って」
「……」船頭は黙って彼女に背を向け、一人、舟に乗り込んだ。
待ってと声を上げる彼女を残し、船を漕ぎ出す。
川の中程迄進んだ時、彼は振り返って声を上げた。
「本当はこういう事も教えちゃいかんのだがなぁ……。これから迎えに行く女は三箇月前に妹を喪って、心を病み、食事さえ摂れずに痩せ細った挙句に亡くなったそうだ」
「……!?」
「桜の木の下でな」
「まさ……か……」蒼褪めた顔で、彼女は呟く。
「ま、此処に来ちまった以上、時間はたっぷりあるんだ。嬢ちゃんにも、姉さんにもな」
暗い川面に大きくも静かな波紋を残して、舟は去って行った。
―了―
暑い暑い。
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Re:うーん
気の迷いだったのか、実際の緊急事態に固まってしまったのか。
妹……それだと舟で渡らなくても充分やん(^^;)
妹……それだと舟で渡らなくても充分やん(^^;)
Re:無題
もう少ししたら――お盆の時期には――あっちからも舟出します(^^;)
船頭さん……やはりあっち側の人ですね。
船頭さん……やはりあっち側の人ですね。