〈2007年9月16日開設〉
これ迄の小説等、纏めてみたいかと思います。主にミステリー系です。
尚、文責・著作権は、巽にあります。無断転載等はお断り致します(する程のものも無いですが)。
絵師様が描いて下さった絵に関しましても、著作権はそれぞれの絵師様に帰属します。無断転載は禁止です。
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迸る岩清水に足を取られながらも、男は険しい岩場を登り続けた。
辺りには近頃の雨を得て、更に緑を増した草木。視界を閉ざす樹木。道と呼べるものは無く、彼はやや増水気味の川を唯一の道筋と、歩いて行った。
来た道の方からは彼を呼び探す人々の声が聞こえるが、彼は振り向かず、只、川の上流を目指す。
その、上流にあるもの――それが、彼がこの登山旅行に参加した理由の一つだった。
それにしても昔取った杵柄なんて当てにならないものだ――すっかり弱った足腰に鞭打つ様にして、彼は登り続ける。このツアーに申し込むにも医師の診断と保証を必要とした程、彼は老いていた。未だ未だ元気な心算でも、登山靴さえ重く、杖に縋らなければならない始末。
この状態で悪路を辿るのは無謀だったのではないか? 絶えずちらつくその思いを、彼は懸命に打ち消した。
今は、この身体の事よりも……と。
辺りには近頃の雨を得て、更に緑を増した草木。視界を閉ざす樹木。道と呼べるものは無く、彼はやや増水気味の川を唯一の道筋と、歩いて行った。
来た道の方からは彼を呼び探す人々の声が聞こえるが、彼は振り向かず、只、川の上流を目指す。
その、上流にあるもの――それが、彼がこの登山旅行に参加した理由の一つだった。
それにしても昔取った杵柄なんて当てにならないものだ――すっかり弱った足腰に鞭打つ様にして、彼は登り続ける。このツアーに申し込むにも医師の診断と保証を必要とした程、彼は老いていた。未だ未だ元気な心算でも、登山靴さえ重く、杖に縋らなければならない始末。
この状態で悪路を辿るのは無謀だったのではないか? 絶えずちらつくその思いを、彼は懸命に打ち消した。
今は、この身体の事よりも……と。
やがて見えて来たのは鏡の様な水面を持つ湖。三方を緑深い山々に囲まれ、一方を、冷たいコンクリートの厚い防壁に仕切られていた。
ダム湖だった。
その懐に、彼がかつて生まれ育った村を抱いた儘、水はひっそりとたゆたっていた。
だが、最近の雨で土砂が流れ込んだのか、水は濁り、村の面影を水底に探す事は出来なかった。
それでも風は吹き渡り、木々を揺らし、鳥の声が何処からともなく聞こえ――彼に子供時代を想起させた。かつてはこの風が村迄吹き降ろし、土煙を上げながら通りを縦断して行ったものだった。その風が強い時期になると、村では口が思う様に開かなくなったり、身体が硬直する疫病が流行ったものだった。
彼の背後に、ふと人の気配が立った。荒い息と、ほっと安堵した様な息が交錯している。
「佐竹さん! どうして一人で離れたんですか!」老人に向かって抗議したのは未だ若い男だった。派手なバンダナを巻いているのは登山参加者への目印の心算か。
「一人で……来てくれたんですね。沢渡さん」老人は振り返って、妙に穏やかに微笑した。
「貴方がこんな手紙を残して行ったから、仕方ないじゃないですか。他の方々にはもう一人のガイドに付き添って貰って、一足先に下山して頂きました。全く、どういう心算でこんな……」険しい顔で詰め寄る沢渡の、ごつい手袋を嵌めた手には一片の紙切れ。
そこには老人の字で、沢渡に一人でこのダム湖に来るように。もし他に人が居れば自分は湖に身を投げる、その様な事が書かれてあった。
「沢渡さん、貴方……お父さん、もしくはお祖父さんがこの辺の出身だったと聞いた事は?」
突然の問いに目を丸くしながらも、沢渡は頷いた。だからこの辺りの山々に興味を持ち、登山家になったのだとも。
「確か祖父が昔……この辺りにあった村の出だったと……。今ではこの湖の下に……」透明度の高くない湖面を見遣り、沢渡は言った。「それが、何か?」
「この村は盆地だった所為もあってか、風が山々から吹き降ろされ、土が舞い……その所為なのか、元々土中に生息する破傷風菌に感染する人が多かった」湖に、遥か遠くに目を馳せ、佐竹は言った。「この菌は細かな傷口から入り、その毒素は神経の働きを阻害し、結果として筋肉の動きを阻害する。口が開かなくなったり、舌が縺れ、挙げ句は身体が硬直し……死に至る事もある、恐ろしい病気だ」
「はあ……」沢渡は困惑していた。破傷風の事は聞いた事はある。何しろ土中に広く分布しているのだ。山に入る自分にも無関係ではない。しかし何故こんな話を?
「確かに村では発症率が高かった。だからこそ、此処を捨てようとする者も多かった。だが、此処を出てから、私は気付いたんだよ。ある年を境に、その発症率が上がっていた事に。そしてそれが例年よりも酷くなったのは、村にダム工事の話が来た頃からではなかったか、とね」
「……詰まり、ダム工事を進める為に、出て行く人の流れを加速させる為に、普段より以上の破傷風菌を撒いた者が居るのではないか、と?」
「そして沢渡さん、貴方の祖父は、ダム計画の賛成派だった。この山深い村を捨て、町に出る金を得ようと、懸命だった」湖を背に、佐竹はじっと、沢渡と対峙する。
「証拠は……あったとしても湖の下ですね。第一、祖父が昔やった事を、俺が知る筈も無い」
「ああ」佐竹は頷いた。そして不意に、穏やかな笑みを浮かべた。「だから、今更どうしようとも思わないよ。只、最期に此処を見たかっただけだ。沢渡の血を継ぐ者と一緒に。そしてその沢渡の血に訊きたかった――これで良かったと思うか、と」
沢渡は周囲を眺め渡した。
山々に囲まれ、湖は静謐に満ち、時折響く鳥の声は尚その静けさを引き立てた。残念ながら湖は雨で流れ込んだ土砂に濁り、美しさを減じてはいたが。
「このダムが無かったら、土砂は川を下り、とても登れる状態ではなかったでしょう。下の街にも被害が出ていたかも知れない。何より、貴方と此処で話す事は出来なかった。そして……祖父の罪に気付いた貴方を始末する事も出来なかった!」沢渡は駆け出した。目の前の老人に向かって。
老人は悲しげに頭を振り――その場に身を沈めた。
老人の杖が勢い余った沢渡の脚に絡み、沢渡はその儘、湖へと転落した。
慌てて這い上がろうとするが、コンクリートの壁は手掛かりも無く、彼を撥ね付ける。撥ね付けられてはもがき、彼は冷たい壁に爪を立てた。
「慌てなさんな。近頃の雨で増水している分、この壁以外の所からは登り易かろう。点検用の梯子も、何処かに無いかね?」腰を伸ばしながら老人は言い、苦笑した。「やはり知っておったんだね。祖父の事を。何、もう何十年も前の事だ。私なりに、確かめて置きたかっただけだよ。これ以上どうもする気は無い」
今更、村が戻る訳ではないのだから。
「では、沢渡さん、私は先に戻るとします」水面に揺れる男に深々と一礼して、佐竹はその場を去った。
暫く後、梯子を見付けて水から上がった沢渡は、派手なバンダナも失くし、爪の剥がれた手を抑えて濡れ鼠で震える、哀れな男だった。
そして下山して佐竹の行方を捜したものの、その行方は知れず――三日後、彼は自分の口が開かない事に気付いて慌てて病院に駆け込む事となった。
それは祖父の過ちの因果だったのか、それとも彼自身が犯そうとした罪への咎だったのか……。
―了―
何と無く湖の話。
破傷風、最近ではワクチンもありますね。それでも発症する方も居るという事ですから、油断はなりませんねぇ。
ダム湖だった。
その懐に、彼がかつて生まれ育った村を抱いた儘、水はひっそりとたゆたっていた。
だが、最近の雨で土砂が流れ込んだのか、水は濁り、村の面影を水底に探す事は出来なかった。
それでも風は吹き渡り、木々を揺らし、鳥の声が何処からともなく聞こえ――彼に子供時代を想起させた。かつてはこの風が村迄吹き降ろし、土煙を上げながら通りを縦断して行ったものだった。その風が強い時期になると、村では口が思う様に開かなくなったり、身体が硬直する疫病が流行ったものだった。
彼の背後に、ふと人の気配が立った。荒い息と、ほっと安堵した様な息が交錯している。
「佐竹さん! どうして一人で離れたんですか!」老人に向かって抗議したのは未だ若い男だった。派手なバンダナを巻いているのは登山参加者への目印の心算か。
「一人で……来てくれたんですね。沢渡さん」老人は振り返って、妙に穏やかに微笑した。
「貴方がこんな手紙を残して行ったから、仕方ないじゃないですか。他の方々にはもう一人のガイドに付き添って貰って、一足先に下山して頂きました。全く、どういう心算でこんな……」険しい顔で詰め寄る沢渡の、ごつい手袋を嵌めた手には一片の紙切れ。
そこには老人の字で、沢渡に一人でこのダム湖に来るように。もし他に人が居れば自分は湖に身を投げる、その様な事が書かれてあった。
「沢渡さん、貴方……お父さん、もしくはお祖父さんがこの辺の出身だったと聞いた事は?」
突然の問いに目を丸くしながらも、沢渡は頷いた。だからこの辺りの山々に興味を持ち、登山家になったのだとも。
「確か祖父が昔……この辺りにあった村の出だったと……。今ではこの湖の下に……」透明度の高くない湖面を見遣り、沢渡は言った。「それが、何か?」
「この村は盆地だった所為もあってか、風が山々から吹き降ろされ、土が舞い……その所為なのか、元々土中に生息する破傷風菌に感染する人が多かった」湖に、遥か遠くに目を馳せ、佐竹は言った。「この菌は細かな傷口から入り、その毒素は神経の働きを阻害し、結果として筋肉の動きを阻害する。口が開かなくなったり、舌が縺れ、挙げ句は身体が硬直し……死に至る事もある、恐ろしい病気だ」
「はあ……」沢渡は困惑していた。破傷風の事は聞いた事はある。何しろ土中に広く分布しているのだ。山に入る自分にも無関係ではない。しかし何故こんな話を?
「確かに村では発症率が高かった。だからこそ、此処を捨てようとする者も多かった。だが、此処を出てから、私は気付いたんだよ。ある年を境に、その発症率が上がっていた事に。そしてそれが例年よりも酷くなったのは、村にダム工事の話が来た頃からではなかったか、とね」
「……詰まり、ダム工事を進める為に、出て行く人の流れを加速させる為に、普段より以上の破傷風菌を撒いた者が居るのではないか、と?」
「そして沢渡さん、貴方の祖父は、ダム計画の賛成派だった。この山深い村を捨て、町に出る金を得ようと、懸命だった」湖を背に、佐竹はじっと、沢渡と対峙する。
「証拠は……あったとしても湖の下ですね。第一、祖父が昔やった事を、俺が知る筈も無い」
「ああ」佐竹は頷いた。そして不意に、穏やかな笑みを浮かべた。「だから、今更どうしようとも思わないよ。只、最期に此処を見たかっただけだ。沢渡の血を継ぐ者と一緒に。そしてその沢渡の血に訊きたかった――これで良かったと思うか、と」
沢渡は周囲を眺め渡した。
山々に囲まれ、湖は静謐に満ち、時折響く鳥の声は尚その静けさを引き立てた。残念ながら湖は雨で流れ込んだ土砂に濁り、美しさを減じてはいたが。
「このダムが無かったら、土砂は川を下り、とても登れる状態ではなかったでしょう。下の街にも被害が出ていたかも知れない。何より、貴方と此処で話す事は出来なかった。そして……祖父の罪に気付いた貴方を始末する事も出来なかった!」沢渡は駆け出した。目の前の老人に向かって。
老人は悲しげに頭を振り――その場に身を沈めた。
老人の杖が勢い余った沢渡の脚に絡み、沢渡はその儘、湖へと転落した。
慌てて這い上がろうとするが、コンクリートの壁は手掛かりも無く、彼を撥ね付ける。撥ね付けられてはもがき、彼は冷たい壁に爪を立てた。
「慌てなさんな。近頃の雨で増水している分、この壁以外の所からは登り易かろう。点検用の梯子も、何処かに無いかね?」腰を伸ばしながら老人は言い、苦笑した。「やはり知っておったんだね。祖父の事を。何、もう何十年も前の事だ。私なりに、確かめて置きたかっただけだよ。これ以上どうもする気は無い」
今更、村が戻る訳ではないのだから。
「では、沢渡さん、私は先に戻るとします」水面に揺れる男に深々と一礼して、佐竹はその場を去った。
暫く後、梯子を見付けて水から上がった沢渡は、派手なバンダナも失くし、爪の剥がれた手を抑えて濡れ鼠で震える、哀れな男だった。
そして下山して佐竹の行方を捜したものの、その行方は知れず――三日後、彼は自分の口が開かない事に気付いて慌てて病院に駆け込む事となった。
それは祖父の過ちの因果だったのか、それとも彼自身が犯そうとした罪への咎だったのか……。
―了―
何と無く湖の話。
破傷風、最近ではワクチンもありますね。それでも発症する方も居るという事ですから、油断はなりませんねぇ。
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こんばんは♪
破傷風!近頃、あまり耳にしてないけど、油断は禁物ですよね!
私、破傷風って患部が腐ってくるのだとばかり思っていた!神経に作用するんですか!
いやぁ~それ聞いて、今頃になってゾクゾク!
危険な地域で怪我した事があったのだけど、破傷風なんて患部を消毒すりゃ良いんだろうくらいに考えてたの!コワァ~~(笑)
私、破傷風って患部が腐ってくるのだとばかり思っていた!神経に作用するんですか!
いやぁ~それ聞いて、今頃になってゾクゾク!
危険な地域で怪我した事があったのだけど、破傷風なんて患部を消毒すりゃ良いんだろうくらいに考えてたの!コワァ~~(笑)
Re:こんばんは♪
最近はワクチンが普及してますからねぇ。
でも、細菌自体は居なくなった訳ではないので、免疫が低下してたりすると……?
意外にも症状としては痛みを伴った筋肉の痙攣等が起こるそうです。因みに人畜共通病原体なので、猫さんにも注意?
消毒は大事ですよ~☆
でも、細菌自体は居なくなった訳ではないので、免疫が低下してたりすると……?
意外にも症状としては痛みを伴った筋肉の痙攣等が起こるそうです。因みに人畜共通病原体なので、猫さんにも注意?
消毒は大事ですよ~☆
Re:こんばんは
破傷風を流行らせたと同時に住民の故郷への想いも断ち切っちゃいましたからね。沢渡祖父さん。
純粋に風土によるものなら仕方ないと諦めも付くけど、人為的なものも絡むとなるとねー。
純粋に風土によるものなら仕方ないと諦めも付くけど、人為的なものも絡むとなるとねー。
Re:深いね・・・
有難うございます(^^)
老人がどうして危険を冒して一人、沢を登って行くのかな~、と考えてる内にこんな話になりました☆
老人がどうして危険を冒して一人、沢を登って行くのかな~、と考えてる内にこんな話になりました☆
Re:こんにちは
有難うございます(^^)
色々と知識を掻き集めては書いてます(笑)
でも、広く浅いかも☆
色々と知識を掻き集めては書いてます(笑)
でも、広く浅いかも☆
Re:こんにちはっ
今はワクチンで予防出来ますからね~。
調べてみたらちょっと意外な症状でしたね☆
調べてみたらちょっと意外な症状でしたね☆
Re:復讐
うちは母が割と故郷とかいったものには頓着無い方で、こういう場合、金貰って新しい家に越せるんなら早々に出ればいいのに、とか言うタイプです。そして何故か私は逆方向に育ちました(笑)
思い出とかそういうものは時に金には変えられないでしょー、という。佐竹氏は私似ですかね(^^;)
思い出とかそういうものは時に金には変えられないでしょー、という。佐竹氏は私似ですかね(^^;)