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全身で夜の冷気を受ける様にして歩きながら、直紀はバス停からの寂しい一本道をとぼとぼと辿っていた。この道が何処へ通じているのかも知らない。周りには只刈り取られた後の寒々とした田畑と、その中に点在する農家や、物置らしき小屋だけ。バス停に設置された笠付きの街灯だけが、辛うじて道を照らしているが、その範囲ももう直ぐ尽きる。
後は細く欠けた月と満天の星明りのみ。
直紀は白い溜め息を吐いた。
何も考えずに――考える余裕すら無く――手荷物だけを纏め、バスに飛び乗っていた。手近にあった現金全て、換金出来そうな小物、使えるかどうか解らないが預金通帳、僅かの衣服……。位置を特定される事を恐れて、携帯電話はバスに残して来た。バスが何処迄行くのかは知らないが、此処も早く移動した方がいいだろう。
しかしこの田舎の集落ではあれが終バスだったらしい。星明りがあるとは言え、この田舎道、遠くへ移動するのは無理だろう。
何より、疲れと僅かばかりの安堵感が彼の脚を重くしていた。
何処かで朝迄休もう――彼は周囲を見回した。しかし、こんな所に宿がある筈も無く、また顔を覚えられるのも望まない。近くの民家など尚更だ。
夜露を防げそうな場所として、彼は畑の真ん中の物置小屋を選択した。トタン張りの如何にも粗末な小屋だが、夜風位は凌げるだろう。
だが、近付いてみて落胆する。
暫くは使わないからという事だろう。扉には何重にも鎖が巻かれ、南京錠が掛けられていた。鎖も鍵も新しく、力技では壊せそうにもない。扉は粗末な造りだが、これを壊そうとすればそれなりに音がする。聞き付けられて、駐在でも呼ばれれば事だ。
仕方なく他を探そうとした時、足元で小さな音がした。何かを蹴飛ばした様だった。蹴られた先で石に当たったらしい音は金属質のもの。
直紀はしゃがみ込んで、足元を探った。
小さな、鍵が落ちていた。
「真逆な」呟きつつも、もしかして鍵を掛けた小屋の持ち主が落として行ったのかも知れないという一縷の望みを掛けて、彼はその鍵を南京錠に差し込んだ。
カチリ、と音がして、錠は開いた。
「拾っちゃったねぇ」どこかのんびりとした少女の呟きは、彼の耳には届かなかった。そのくすくす笑いも。
「馬鹿な……」鎖を取り除け、小屋の中に入り寒気を避けようと早々に扉を閉めた途端、直紀の口からそんな言葉が漏れた。
それは無人の筈の小屋に、扉を閉めると同時に灯が点った所為でもあり、そして何より、その小屋の中が――彼が逃げて来た部屋そのものだったから。
豪奢な飾りの付いたマントルピースも、重厚な一枚板のデスクも、その前の趣味のいい応接セットも、デスク向こうのブラインドの掛かった窓さえも。内装そのものが、落ち着いたベージュの壁紙に包まれたとある書斎にしか見えなかった。
そして何よりも、応接セットに倒れ込んだ男の遺体とその横に転がった大理石の灰皿が、そこがあの部屋に他ならない事を物語っていた。
慌てて踵を返し、直紀は硬直する。
扉が、粗末なトタンなどではなく、樫の一枚板になっている。これも、あの部屋のものだった。
脳裏をこれ迄の道程が去来する。
返り血を洗い流し、高層マンションのこの部屋から逃亡に役立ちそうな物――現金や金目の物、預金通帳――を手早く詰め、敢えて不自然に写らない様に防犯カメラの前を横切り、人と行き会わない事を願いながらエレベーターで下へ。擦れ違う人の視線を避け、マンションを出る。そして黄昏時の道を自転車で自らのアパートへ戻り、最低限の衣服を詰める。
そうしてバスに飛び乗ったのが宵闇迫る頃だった。
此処を開けたら――またあれを繰り返すのか? 人の視線に疑惑の色を見、流れ来る人の声に断罪の音を聞き、擦れ違う人皆が追っ手に見え……。心臓は休まる事無く早鐘を打ち、喉はからからに渇く。
馬鹿な、と再び呟く。此処は田舎の田んぼの真ん中の物置小屋。そこ迄逃げて来たんじゃないか。きっとこれは良心の呵責が見せる幻影に過ぎない。
ぎゅっと、眼を瞑る。
開いたらきっと、闇の中で、辺りには農作業の道具が積んであって……遺体なんて無いに決まっている!
暫し瞑目し、ようやく固く瞑った眼を開こうとした時、背後で呻き声が上がった。
「う……直紀? そこに……居るのか?」初老の男の声。聞き慣れた伯父の声。もう聞けない筈の伯父の声。「頭が……誰かに、殴られたんだ……。救急車を、呼んで貰えないか?」苦しい息の下で、切れ切れに届く声。
生きている。が、自分に殴られた事は解っていない?――直紀はゆっくりと眼を開きながら、振り返った。ショックで記憶が混濁しているのか?
依然としてそこは伯父の書斎だったし、伯父は苦しげに頭を抱えている。その側頭部から出血している。直紀は即死を確信したのだが、打ち所が外れたのか弱かったのか……。
「直紀? 何をしている? 早くせんか!」いつもの高圧的な口調。「救急車だ! 早く……何故動かん? やはりお前は出来損ないだ。死んだ弟の直也と同じ……」
聞き慣れたフレーズだった。
幼い直紀を残して死んだ父、直也と同じ出来損ない。いつ迄もこの伯父の世話になっておきながら恩返し一つ出来ない。学校も休みがち、大学には入れたのが不思議な程だ。そして四年間何をしていたのか知らないが、今頃進路に迷って私に就職の世話を頼むだと? お前自身は何をしたいんだ? お前は何故、私の様に出来ない? 私が居なくなったらどうする……。
どれだけ聞いて、どれだけ我慢してきたか。
確かに社会人として成功している伯父から見れば、フリーターでどうにか生きている自分は半端者かも知れない。彼に頼っている自覚もある。大学迄出られたのも、彼のお陰だ。だが、幼くして父を亡くし、十代で母も亡くした自分に他に頼るべき血縁は居ない。辛い時に甘えられる相手も居ない。
だから、我慢してきた。
父の事を言われても、母の事を言われても。両親共、喜んで彼を放って逝った訳ではないと、どれだけ反駁したくても。
だが、それも限界だった。
だから――いや、そんな事を考える間も無く、ブラインド越しの夕陽に照らされたこの部屋で、彼は重い灰皿を振り下ろした。
「直紀! 聞いているのか? 救急車を……! 私は未だ死ぬ訳には行かない……」未だ喋り続けている伯父に歩み寄り、直紀は血に濡れた灰皿を手に取った。伯父が不審げに、黙り込む。
「伯父さん、頭、痛いでしょうね」口元に引き攣った様な笑みが広がるのを、直紀は自覚した。狂い掛けているのか? いや、そもそも、逃げ出して来た筈の部屋と死んだ筈の伯父が現れ、此処で喚いているのだ。もう、狂っているに違いない。「何でなら、俺がこうやって殴ったからですよ!」
振り下ろす。
凶行の再現。
狂っている。恐らくは幻影の、既に死んでいる伯父に凶器を振り下ろし続けるなんて。何度も、何度も……。今度こそ、と。
「私は……未だ、死ぬ訳には……お前を……残し……」その言葉が伯父の最期の言葉だった。
気が付いた時、直紀は暗い小屋の中で石を何度も何度も、詰まれた土嚢袋に振り下ろしていた。握り締めた手は強張り、指先には血が滲んでいた。
「……一体……どうなって……」後ずさり、石を掴んだ右手を左手で引き剥がしながら、茫然と呟く。
明るい書斎など最早何処にも無く、そこは隙間から寒風が染み入る闇の蟠った農具小屋に過ぎなかった。
しかし、幾度もの殴打の感触は手に残り、心臓はどくどくと脈を打ち続ける。全身が、心臓になった様な感覚はなかなか収まらなかった。
やはり幻だったのか? それにしては余りにもリアル過ぎる。まさしく二度、伯父を殺した感触を、彼は味わっていた。
居た堪れなくなって、彼は――やはり只のトタン板しか見えない――扉に手を掛けた。一瞬躊躇するが、あれは幻、と強く頭を振り、扉を開ける。
夜気が冷たく、彼の頬を打った。
広がるは満天の星空。冬の田舎の荒涼たる風景。
そう。逃げて来たのだ。自分は今の所、逃走に成功している。
しかしあんな幻を見た以上、この小屋で一晩、身を隠すのは御免だった。別の小屋を目指そう――取り敢えず痕跡を残すまいと鎖を巻き直し、南京錠を閉めようとした所で、背後から声が掛かった。
「何処へ行っても同じよ?」こんな時間には不似合いな、未だ幼い少女の声。振り向けば果たして十歳になるかならないかの少女が一人。青いリボンに青い服、青いケープを羽織っていた。「この辺の小屋の鍵は全部、それで開くわ。でも……同じ事よ?」
「君は……?」直紀は呆気に取られて尋ねた。最早どうしてこんな時間にこんな小さな子が出歩いているのかという疑問など、二の次だった。
「ありす」そう言ってにっこりと笑う顔は愛らしい。だが、一見無邪気な様でそうではない何かを、直紀は感じ取っていた。
「同じ……って?」
「見たんでしょ? 貴方がして来た事。そしてまた同じ事をしたんでしょ?」
「君は……見ていたのか? 僕が伯父を……」
「ううん」少女は頭を振った。「見るのは貴方。どうするか決めるのも貴方。あれは貴方の中の世界。私には干渉出来ない。する気も無いわ。只……同じ事を続けていていいのかなって思っただけ」器用に小さな肩を竦める。
「訳が解らない事を言う子だな」そう嘯(うそぶ)きつつ、また、心音が耳朶を打つ。「子供は早く寝るものだよ? さっさとお帰り」
「そうも行かないのよ。まぁ、こっちの話だけれど」
本当に訳が解らない――薄気味悪げに少女を見遣り、直紀は別の小屋への道を選んだ。何か知っているらしいこの子を放って置いていいのか、そんな物騒な考えも浮かんだが、流石に子供に手を掛けるよりは、逃亡を望んだ。
あり得ない事に、少女の言った通り、次の小屋の鍵もあの拾った鍵で開いた。
そしてそこで起こった事も、同じ――。
三度伯父を殺した彼の前に、再び少女が姿を現した。
「伯父様、死の間際、何て言ってた?」会うなり、そう訊かれた。
「同じだよ……。未だ死ぬ訳には行かない――お前を残して」
「それは何故?」
「自分一人死ぬのが嫌だったんだろう。俺なんかに殺されて、俺だけがのうのうと生き残って……」自嘲的に、直紀は吐き出した。「お前も連れて行く、位言いたかったんじゃないか?」
ふう……と、少女は溜め息をついた。
「あのね、一度荷物の整理、した方がいいよ?」最後の助言、そんな響きがあった。「じゃね」
手をひらひらさせ、何処へともなく歩き始める。
荷物と言われても慌てて拵えた手荷物が一つ。直紀はそれを見下ろすと、バス停の傍迄戻り、街灯の灯の端で大き目の石に腰掛けた。
伯父の部屋から掻き集めた現金、金目の物、預金通帳……番号が誕生日か何かならいいんだけどな――そう思って眺めたそれに、名前が一つ。
小暮直紀。
自分の名義だった。
慌てて開いてみると残高は二千万。作られたのは両親が亡くなった後で、一度も引き出されてはいない。
伯父が、積み立ててくれていた?
だが、だとしたら何故、自分が困っている時にこれを出してくれなかったのだ?
もしこれを出していてくれたなら……。
「あっさり、使い切ってただろうな」自嘲の笑みが浮かぶ。今の自分にこんな大金が舞い込んだら、調子に乗ってあっと言う間に残高ゼロ。下手をすればこれがあるからと遊びに狂って身を持ち崩していたかも知れない。
だからこそ伯父は彼に地に足の付いた生活を望んだし、今死ぬ訳には行かないと……。彼を思えばこそ、冷たく厳しい言葉もぶつけていたのだとしたら……。
その伯父を三度殺した手を、直紀は見下ろした。指先には血が滲み、空気の冷たさと相俟ってじんじんと痛む。
「もし……あの幻の様に伯父が死んでいなかったなら……」救急車を呼び、早急な手当てさえ受けさせれば間に合ったかも知れない。
「確かめないの?」降って湧いた声に、最早驚きもせず振り返れば、青い服の少女。
直紀は頭を振った。
「解ってる。俺が殴ったのは夕方。もし、生きていたとしても今からじゃあ……」
「そう」少女は隣に腰掛けた。「それで、どうするの?」
「自首する」きっぱりと、直紀は言った。「自殺も考えたが……それでは伯父が赦してくれそうにない。甘いかな?」
少女は首を横に振った。茶色い髪が揺れる。
「自殺を選ぶ方が甘いわよ。罪を償って、今度こそ伯父様を安心させられる様になるのがベターじゃない? ま、干渉はしないけど」
直紀は立ち上がり、バス停傍の公衆電話ボックスに向かった。
と、扉を開けて立ち止まり、少女に銀色の小さな鍵を放って寄越す。
「それ、もしかしたら君のだろ? 返すよ」
「うん」少女は頷いて、取り出した鍵束にそれを繋いだ。「御苦労様」鍵に囁きかける。
そして、たった三桁のプッシュ音を背後に聞きながら、その場を立ち去った。
「確かめる位はすればいいのにねぇ」とある小屋の前、少女は胸元から鍵を取り出す。金色の鍵。master keyと書かれたプレート。
開かれた扉の向こうは――白い病室。
あれから直ぐ、来客があった事を直紀は知らない。客は救急車を呼び、伯父は辛うじて命を取り留めていた。
今は眠っているが、発見直後、誰にやられたのかと訊いた客に、彼は答えていた。「解らない」と。直紀には、正面から殴られたのに。
「おやすみなさい。不器用さん達」
再び金色の鍵を使って、彼女は姿を消した。
―了―
思いの他長くなった「鍵シリーズ」第二話。
結局彼女は「ありす」と名乗る事になりました!
皆様、有難うございましたm(_ _)m
表記は一応平仮名で「ありす」
実は意味が無いでもない……かも?
今回の彼。幻の中とはいえ、精神的にも感触も気持ちの悪いだろう犯罪を繰り返してしまうなんて…頭に血がのぼってしまうというのは怖いよね。 それだけ憎かったのだろうけどさ。
一枚の通帳から、おじさんの気持ちが解ってよかったけど、それ一枚で解る位の頭の血なら、早く話し合いをすれば理解しあえたのに…と思う。
「人間て愚かよね」
って、夜霧とありすの囁きが聞こえてきそうです。
…道端に鍵が落ちてるのを見かけたらドキドキしちゃうな。
や、やましい事は無いんだけどね…。ホントよ?
「人間って愚かよね」……夜霧もっすか(笑)言いそうで怖いよ~。
道端でなくても、見覚えの無い鍵はありませんか?
くすくす♪(by ありす)
ありすちゃん、みんなに見えたら犯罪は無くなるのかな。。。。なぁんて考えている私です。
良心はみんなが持っているはずなのにねぇ(..;)
あと、こんなエンディング、好きで~す☆
ノリで書いてる部分が無きにしも非ず(笑)
伯父さんの生死、どうしようか悩んだんですが、結局直紀君にもチャンスを上げようと。今度こそ、ちゃんと話し合える筈ですし。
甘やかすばかりが愛情じゃない、と言う人ですね。
誤解を招き易かったり、難しいけどね。
夜霧、偶には真っ当な句を……(ほろり)
あし@経由、私もちょっぴり面倒(^^;)
なのでこちらもリンク晴らせて頂きますね♪(不都合があればお知らせを)

夜霧、二次会楽しかったの? 酔っ払い?(笑)
ありすは……何者でしょうねぇ(笑)
鍵……何の鍵かなぁ?^^
コワイ、コワイ。自分の胸に手を当ててみる。(^_^;)
でもこの伯父さん良いよなぁ。
こんな頼りになる人が自分の傍に居たらなぁ。(T_T)
伯父さんが妙に人気だ(笑)
私も親戚に一人位居て欲しい(爆)
ちょっと頼りない直紀君、伯父さんも居るしこれからは大丈夫でしょう^^
ご訪問&コメント、有難うございますm(_ _)m
私も不思議大好きなもので、拙いながらもぼちぼち書いております(^^)
宜しかったらまたお越し下さいませ♪
「ありす」ちゃんかあ。可愛いなあ。
この名前の所為かどうか、なんだか先生のノンシリーズにありそうな雰囲気ですね。先生の場合は、最後まで救いは無いでしょうけれど。
いいお話でした。
あ☆七行目、“満点”になってますよ。
「ありす」だけに例の病気が(笑)
救いはどうしようか、実は悩んだのー。
基本的には因果応報主義なので。
完全に只の物取りとかだったら、ありすも別の結末への鍵を渡したかもね。
主人公の殺害動機に、若干の甘さを感じるけど、登場人物一人一人の存在に、リアリティーみたいなものがあって、これはほんとにいいなと思う。
繰り返されるシーンもいい。
女の子が、おさまり返って説教臭くなったらイヤかも、個人的には。
あくまで、個人的な意見。
うん、基本的に彼女は「干渉しない」路線で行く心算。
選ぶのは結局、人だから。