『図書館の憂鬱』

　梅雨時は嫌だね、と良介君は呟いた。
　図書館の窓から、薄曇の空を見上げながら。
「やっぱり雨は嫌い？」私はふと微苦笑して訊いた。実の所、幽霊である良介君には雨さえも――本人が望みでもしなければ――当たらず、その場所を擦り抜けていく。雨に濡れるという感触を、疾うの昔に彼は失くしていた。
　それはそれで、寂しい事かも知れないけれど。
　雨の度に髪が言う事を聞かなかったり、服装に気を遣ったりする生身の私としては、少しだけ羨ましかったりする。何より……。
「本が湿気ちゃうじゃない」
「そうそう、それよ問題は」良介君の言葉に我が意を得たりと、私は思わず大きく頷いていた。
　本馬鹿と言う勿れ。大事な本には長持ちして貰いたいのだ。況してや此処の本は公共物だもの。
　町立鹿嶋記念図書館。良介君の父である鹿嶋氏の死後、町に寄贈された此処には、古い貴重な本も数多く所蔵されている。
　偶に、変な本もあるけれどね。

「佐内さん。済みません」呼ばれてふと振り返ると、司書の山名さんが一冊の本を携えて立っていた。布張りの、なかなか高価そうな本。表紙中央には女性の姿が型押しで、浮き出ている。書名から見て、何やら占いに関しての研究書らしいけど。
「どうかなさったんですか？」思わず警戒しながら、私は尋ねる。
「ちょっと、この本を見て頂きたくて」
「私はおかしな本センサーではありませんけれど」思わず顔が引き攣る。確かに良介君が見えたりするお陰で、そういった物を見付ける率は高いかも知れないけど、私は至って普通の人間だ。
　でも、隣に居る良介君も興味深そうではあるものの、危険は感じていないみたい。怖い本ではないのかな？
　実際、手に取って見た本は絵も豊富で綺麗な造り。まぁ、専門書らしくて、よく解らない言葉もあったけれど、それらには脚注も付いている。
「この本がどうかしたんですか？」私は再度、山名さんに質した。
「それが……この本を借りて行かれた利用者の方から、異口同音に『その晩、怖い夢を見た』と……」

　本を借りて行くのはやはり占いに興味のある若い女性や、占い師らしき人達。内容から言っても数日単位で借りて行く事が多いのだが、何故か翌日には返却に来る。怖い夢を見た、と言って――山名さんの話ではそういう事だった。
「怖い夢って、例えば？」私は首を傾げた。「それがどうしてこの本の所為だと思ったんでしょうね？」
「その……」山名さんは件の本の表紙を指差した。「表紙の女性が出てきたと言うのですよ。夢に。それも酷く不機嫌な表情で、何やらその借りたご本人の事を占い始めるのだそうですが、それが余りに不幸な事ばかりで……。洪水に遭うだとか、火事に遭うだとか、重い岩に押し潰されるだとか。然も――夢の中ですが――それが次々的中していく。それで堪らず目を覚まして、夜明け迄まんじりとも出来ずに、開館早々に返却に見えられる方が多くて……。流石にこれはおかしいのではないかと」
「それは……かなり嫌そうね」私は顔を顰めた。「此処で読んで帰った人とかには？　何ともないんですか？」
「それは耳に入っておりませんね。職員と親しい常連の方もおられますから、何かあればこんな事があったと話の種にでもなりそうな所ですが……」
「……借りて行かないと解らない、かしら？」私はごくり、と唾を飲み下した。借りて行けば悪夢を見ると解っている本。それを借りて迄理由を探る義務が私にある？　いや、無い！　私は只の常連さんよ？
　でも、気になるのも事実――結局私は問題の本を借りて帰った。

「いざとなったら叩き起こしてね」自宅のマンションにて。結局件の本を読み、そろそろ……とベッドに入りながら、私は良介君に声を掛けた。問題の本は傷まないようにいつも借りて来た本を挿しておく本棚へ。例えどれ程眠くても、本をその辺に放り出して寝る事なんて出来ない――それが佐内すばるの習性なのよ。
　良介君は解ったと頷き、にっこり笑って、おやすみと言ってくれた。
　それで少し安心する。私がうなされ出したら大声出して起こしてくれていいからね。どうせマンションの他の住人には聞こえないんだから。
　それにしても表紙の女性は何を怒っているって言うんだろう？――そんな事を思いながらも私は眠りに落ち……目が覚めたら翌朝だった。
「あれ？」私はずっと部屋に居てくれたという良介君と、顔を見合わせた。
　何も、起こらなかったんですけど？　山名さん？

　一度読み始めた本は読了すべし――佐内すばるの習性その二に従い、私はそれを読み終える迄借り続けたのだけど、その間一切、おかしな夢は見なかったし、良介君も私がうなされる事は無かったと言い切ったから、夢は見たけど忘れたというパターンでもないらしい。
「どうなってるんですか？」結局三日後、読み終えた本を図書館に返却しがてら、山名さんに尋ねる。「何ともありませんでしたよ？　まぁ、本は興味深い話だったから読むのは楽しかったですけど」
　けど、山名さんも首を捻るばかり。これ迄貸し出しでこの本を読み切ったのは貴女が初めてですよ、と言われる始末。
「良介君、何か解った？」埒が明かないと、私はこっそり斜め下に視線を送る。
「もしかしたら……なんだけどね」私の顔を見上げて、良介君は言った。「あの本の人、此処に帰りたかっただけなんじゃないのかな？」
「此処に……この図書館に帰りたかった、だけ？」私は目を丸くする。
「この図書館内は、西日が差さない様にとか、換気とか色々本に優しく考えられてるじゃない。勿論禁煙だし、自動販売機のコーナー以外、食べ物や飲み物も持ち込み禁止だし。兎に角本を傷めないようにって感じでしょ？」
　私は頷く。確かに此処はちょっと厳しい位、その辺は徹底している。まぁ、私は元から万が一にも本を汚したくないから、本の近くには飲食物なんかは置かない質――佐内すばるの習性その三ね――だから、苦にはならないんだけど。
「でも、借りられて行った先がどんな家かは解らないじゃない？　お菓子食べながら読む人も居るだろうし、本をその辺に放り出しておく人も居るかも知れない。それが嫌だったんじゃないかな？」
「本の人が？」本の人、っていうのもおかしな話なんだけど。あの女性の姿はあの本の象徴として現れていたのかも知れない。
「占いの内容、思い出してみてよ。洪水や火事や重い岩……どれも本が嫌な事じゃない？　水や火は勿論御法度だし、重い岩っていうのは……積み重ねられてるとやっぱり痛むよね」
「じゃ、それが嫌で、謂わば住み心地のいいこの図書館に帰せ、と……？」
　何て自己主張の強い本！
　それだけ此処の管理がいいという事なんだろうけれど……やっぱり変な本が集まる所だわ。
「でも、どうして私、何とも無かったの？」どうしてもその疑問が残る。
「すばるお姉ちゃんの家の本棚、居心地が良かったんだね。きっと」言って、良介君はにっこりと笑った。
　梅雨の合間の五月晴れの様な爽やかな笑顔だった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―了―

---

　はーい、良介君ですよー（＾０＾）
　本は大事にしましょーね（’－＾＊）／