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顔には逡巡と陰り。落ち着かない視線は先程から床と自らの右手、そしてテーブルの上に置かれた小さな宝石箱とを不定期に巡っていた。
宝石箱は彼女の物。鍵はそれを開ける為の物で、十年前、彼女が十二歳の時に失くした物だった。
それがどういう経緯で渡り、また彼女の元に現れたものか、兎に角それは一人の少女によって届けられた。
十歳位だろうか、茶色の髪に青いリボンのよく似合う、可愛らしい少女。青い服のベルトには古めかしい鍵束が下げられ、その中から抜き出したのが件の鍵だった。
摘み部分の華奢な飾りに特徴のある、小さな鍵。見紛う事無く、彼女の鍵だった。
十年前、転居のごたごたの際に失くしたと思い、散々探し回ってそれでも見付からず、暫く泣き暮らした鍵。あれ以来、宝石箱は開けられぬ儘、彼女のクローゼットの奥にしまい込まれ続けていた。
その鍵が、彼女の手に返って来たのだ。
喜んで、少女から受け取った筈だった――そう、確かに彼女の中に喜びはあった。
だが、いざ宝石箱をクローゼットから取り出して、ふと、そこで彼女の動きが止まってしまった。
「誰が行くもんですか……」冷淡かつ淡白に言い放ち、女は往復葉書を破り捨てた。
千切れた紙片からはばらばらになった「同窓会」の文字が、それでも彼女の目に焼き付いていた。
五年前に卒業した高校の同窓会。
もっと先の事と考えていたのが、思いがけず早い開催となったのには訳があった。少子化、そして都市部の人口減少の影響から、彼女の母校は他校と併合される事となり、校舎も移転され、名前さえも残らなくなると言うのだ。だからこそ、閉校迄の残り少ない時期に、校舎に集まっての同窓会を、と企画が持ち上がったのだった。
そして彼女にも出欠を問う葉書が来たのだが――。
三年A組――その全員が、彼女は嫌いだった。今では。
虐めを受けていた訳でもない。特にトラブルがあった訳でもない。寧ろ表面的には彼女はクラスの皆と巧く付き合い、行事等でも皆が嫌がる係を微苦笑しながらも引き受ける様な生徒だった。
要するに便利な子だったのよ――大学を出、社会に出てもそれは変わりなかった。寧ろ周囲の人間の打算が透けて見え、それは彼女を歪めた。
今回の同窓会だって、タイムカプセルの鍵を預けて――便利屋なんだから必ず来る、そう思われている様に思えて、卒業時には責任重大と大事にしまっていたそれを、彼女は二年前に転居した時、態と元の家に置いて来ていた。今頃は新しく入った住人が捨ててしまったか、建物そのものが壊され、土地も均されてしまったか……。
兎に角、もう手に入らない――だから、行けない。
薄暗い、何処とも知れぬ街路を行く少女の耳に、風のざわめきの様な声が四方八方から届いた。
いずれも、内容は一つ。
この鍵を開けてくれ。
少女はそれらを無視して、次の行き先へと進む。それらの相手をしてはいられない、と茶色の髪と青いリボン、青い服を風にはためかせ、ベルトに付けた幾つもの鍵を鳴らしながら。
街のそこかしこには、ヤケに小さな家々が点在し、声はそこから聞こえてくるのだった。中には威嚇する様に乱暴にドアを叩き、怒声と哀願を交互に繰り返してみせる者も居る。
だが、少女は眉一つ、動かさない。
此処にはもう、彼女の鍵を必要とする者――あるいは鍵が必要とする者は居ない。
此処から出す理由も無い。
「おい」後少しでこの通りを抜けるという所で、はっきりとした声が少女を呼び止めた。最早渾然一体と化した周囲の声とは、未だ異質な声。「あんた、ありすっていうんだろ?」
それはこの通りの者なら誰でも知っている事だった。例え新参者でも。
「どんな扉でも開けられる鍵を持ってるって言うじゃないか。この扉、開けてくれないかな」
無視――それが少女の答えだった。
「おいおい、可愛い顔して無愛想だな。鍵を開ける位、どうって事ないだろう?」
少女の足は結局止まらなかった。幾度呼び止められようと。
只、通りを抜ける手前で一言だけ、呟いた。
「扉を開けて、貴方達に行きたい所があるの?」
しん……。
ざわめきが止んだ。
鍵を開けるのは自らが封じられた場所から出る為。薄暗い狭い部屋から自由になる為。
しかし、その行く先は――行きたい場所、希望は彼等には無かった。
今は未だ。
外に出る事を望みながらも、何処へ行きたい、どうなりたいという望みも無い。そんな彼等の本当の望みは、此処に居たいという事なのかも知れない。安全な場所に居ながら、外に出られたらああしたい、こうしたいと思い描く――今の状態こそが彼等の望みに適っている様だった。
だから鍵を開ける理由は無い――歩を進めながら少女は思った。本当に出たいと望んだのなら、どんな鍵でも届けて上げよう。今は無き廃墟の鍵でも。海の底に沈んだ鍵でも。
此処の亡者達が先へ進めるのなら。
亜理守――次なる理を守る者として。
―了―
何と無く番外編。
眠い……(当たり前)
その台詞、そして声を聞く事はもう無いと、女は鍵を見詰めながら溜め息をついた。ほぼ平板な板に穴が刻まれたディンプルキー。その輪郭が涙でぼやける。
月夜の晩、公園のブランコに一人揺れながら、もう何時間、そうしていただろう。
それは車の鍵だった――甘ったれで子供の様に我が儘な所もある、それでも大好きだった恋人の車の合鍵。
車と、悪い事に酒が好きで、よく歓楽街近くの駐車場に車を停めた儘、飲みに行っては彼女に深夜の電話を入れてきた。
迎えに来てくれないか、と。彼女に運転手を頼むと。文句を言いながらも甘い彼女が、断らない事を知った声で。その為に態々合鍵を渡す要領のよさもあった。
学校で飼っている兎や鶏の餌やり、掃除、花壇の水遣り――夏休みの間、交代でそれらをこなしながら、彼は時折、この旧校舎を見上げてきた。二階建ての木造校舎は古惚けていて、夏の昼の日差しの中では蜃気楼の様に、そして傾いた夕陽の紅い陽の中ではどこか不吉に、妖しげに、そしていつも静かに佇んでいた。
白い鉄筋コンクリート製の新校舎と違い、旧校舎の木枠の窓はガタがきていた。昔の螺子式の鍵も緩みがあり、揺すると呆気ない程に容易に外れてしまった。
この旧校舎の奥に、開かずの理科室があるという噂を、彼は上級生から聞かされていた。
開かずの筈なのに何故そこが理科室と判るのか、誰か見た者は居るのか、等と訊いてみたものの、上級生もまた卒業生から聞いた、という伝聞。それでも、この時の流れから取り残された旧校舎には、何か人の――特に子供の――心を惹きつけるものがあった。
それでも慎重な彼の背中を押したのは、古びた一本の鍵。
先週の水遣り当番の日に校庭で出会った十歳ばかりの、しかしこの学校の生徒ではない少女から、貰った物だ。名前を訊くと、ありす、とだけ名乗った。
そして、これは旧校舎のある部屋の鍵だと言って、彼に鍵を渡すなり、姿を消した。
幼い頃,それはもう二十年以上前にはなるだろう。当時、彼女は幼稚園児だったのだから。
その幼稚園児の手にこそ相応しい程の、小さな鍵。
それを彼女に差し出したのは、十歳ばかりと見える少女だった。茶色い髪に青いリボンがよく似合っている、青い服の少女。年月を重ねていそうな鍵束から、明らかに異色の玩具の鍵を取り外し、彼女の手に乗せたのだ。
だが――。
「これ、私のじゃないわよ」彼女はそう言って、鍵を突き返そうとした。確かに覚えがある。しかし自分の物でないのもまた事実だった。そして、出来れば傍に置きたくないのも。
「でも、貴女にって頼まれたの」少女は意に介した風もなく、鍵を受け取らない。
「頼まれた? 誰に?」一瞬よぎった幼い顔を、微かに頭を振って彼女は打ち消した。
「名前は聞けなかったわ」少女はきっぱりと頭を振る。そして踵を返すと、さっさと行ってしまった。
後を追った彼女だったが、角一つ曲がった所で完全に見失った。丸で、最初から少女など居なかったかの様に。だが、確かに、彼女の手には玩具の鍵が残された。
彼女の前に佇むのは茶色い髪に青いリボン、青い服のよく似合う十歳ばかりの少女だった。女の子から見れば三歳程上といった所だろうか。困った様な微苦笑を浮かべ、手には一本の鍵を持っている。
辺りで他に動くものはと言えば風に吹かれてざわざわと音を立てる木々のみ。庭園中央の噴水の水も止まり、漣(さざなみ)さえも立たない。怪獣の様な木々が揺れ、葉擦れの唸りを上げる度、女の子はびくりと身を震わせた。それでいて、彼女は頑として鍵を受け取らなかった。この庭園から出る門の鍵を。