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「転入早々にそんな話聞かせなくったって……」桐子は口を尖らせた。
家の都合で転校して来た中学校。この転校初日にそんな話を聞かせてくれたのは少し悪戯っ子めいた男子だった。
家はどの辺?――そんな他愛もない話の流れで上った話題だった。
気にしない方がいい、と隣の席の女子は言った。あいつ、少し意地悪なのよ、と。
けれど、噂の存在そのものは否定しなかった。所詮噂よ、と笑ってはいたが。
生憎とこちら方面に帰る生徒は部活があったりで、一緒に帰る相手は居なかった。遠回りして迄一緒に帰って貰うのも、部活の終了を待つのも、怖がりだと笑われそうで憚られた。
仕方ない。大丈夫よ、夕暮れには未だ間があるし――彼女は十字路を越え、件の道に一歩、足を踏み入れた。
道の両側は高く長い柴垣。どこの敷地なのか、垣根の向こうには木々が植わり、更に視界を狭くしている。
早く通り抜けてしまおう。桐子は足を速めた。
半ば迄進んだ時だろうか。
ふと、背後からぺたり、と音がした様な気がして、彼女は立ち止まった。丸で裸足、それも水に濡れた足の音。
気の所為だ――そう思いつつ、彼女は振り返った。誰も居ない。道には彼女一人だ。
怖がっているからそんな気がするだけだと、桐子は微苦笑して、再び歩き始めた。
ぺたり、ぺたり……。
「!」今度は確かに連続した足音だった。一瞬ぎくりと動きを止めた後、桐子は後ろも振り返らず、走り出した。
自分の靴音と、乱れた呼吸音に混じり、濡れた足音がついて来る。
「いやぁ……!」悲鳴を上げた直後――背後からの足音が止んだ。
代わりに聞こえてきたのは道の先から彼女を呼ぶ、両親の声だった。
「夜になっても帰って来ないから、道に迷ったんじゃないかと心配したわよ」
それで捜しに来たのだと言う両親に、桐子は茫然と空を見上げた。
道に入ったのは夕暮れにも間がある程だったと言うのに、今見れば空には満月が浮かび、星が煌いていた。
「私……何時間、あの道に居たの……?」
当然ながら、翌日から彼女は登下校の道順を変えた。
―了―
何か中指の先が痛い(--;)
棘が刺さってる風もないんだけどな~。
「いや、未だです。それで確かめる作業もちゃんと出来ないんで奴の証言と死因との照らし合わせみたいな実質的な事は――研究が済む迄後回しで――しなかったよ……いえ、しませんでした」
やや灰色を帯びた白く長い廊下。それぞれ腕にファイルを抱えた男女は無表情に会話を交わしていた。
「そう」一つ頷いて、女は言った。「面倒ね。また例の治療法の被害者を騙っているだけかも知れないし」
「まぁ、それがばれたら、尚罪が重くなるんですから。兎に角、こっちは情報を集めて、事実を詰めて置くだけです。何にしろ、犯罪を犯した人格が特定、そして固定されれば直接的な取調べも進められますよ、課長」
「そうね。けど、本当、面倒な時代になったものだわ」
本当に面倒なのはこっちの方だよ――やはり無表情に白い廊下を進みながら、男は内心、嘆息していた――「公私の区別を判然とさせるべし」なんて条例、考案したのは誰だよ?
少し前の時代、この国はそれなりに裕福で、それなりに社会生活も巧く運んでいた。
ところがどうも、犯罪が減らない。衣食住足りて、未だ礼節が足りない。
人々はその原因を精神的なものに求めた。恵まれ過ぎていて、公私の区別も付かない幼稚な心が犯罪を生むのだと。
それに折悪しくと言うべきか、政治家お得意の問題発言も度重なった。これもやはり公私の区別が付かないからだと、叩かれた。
公の場には公の場に相応しい、私的な場にはやはりそれに相応しい服装、立ち居振る舞いがある。そして公の立場にはそれに相応の責任が付いて回る――その重さを再確認せよ、との風潮が高まった。
その結果、先の条例が生まれたのだが……。
そう言われて治る様ならそもそも最初からそうしている。一部を除いて、自分の人生を棒に振ると知りながら、好き好んで犯罪を犯したり、失言を犯したりはしないだろう。
だが、そうした自分の振る舞いに責任や自信を持てない者が溢れ、それらを対象とした治療法と称して人格分裂法が生み出された。「公」と「私」それぞれの場面において相応しい自分が演じ分けられるよう、人格そのものを分けてしまおうとしたのだ。
結果、友人達との語らいの場ではユーモアを解しながらも、公の場では決して浮ついた失言をしない政治家や、各種ハラスメント行為に陥らない上司や教師等が生まれたが――残念なのは、人間の心がそう完全に割ってしまえるようなものではなかったという事だろう。
公私、二分する心算が多重人格となった者、あるいは本来そうあるべき場面とは違う人格が顔を出すようになった者、様々な問題が頻出し、人格分裂法は禁止された。
だが、既にその治療を受けてしまった者の人格は元には戻らず、入れ替わり立ち代り「本人」を演じては、時折、犯罪に手を染める者も現れた。
捕えてみてもそれらの証言は人格によりまちまちで、そもそもの犯罪を犯した人格が取り調べには現れない事もあった。そこで政府の研究施設では、その人格を表出、固定させる研究をしているのだが、その成果もやはり、まちまちだった。
何が引き金になるのか、あっさりと固定され、罪を認める者も居る。あるいは何年も掛かって、未だに研究施設から戻って来ない者も居る。その違いもやはり、研究対象ではあった。
結局公私の区別なんて、心のあり様を「治療法」という外部の力に頼ったのが間違いだったのだ――男は上司の後姿を追いながら、思う――心なんて自分以外の誰に、どう出来るって言うんだ?
「俺は俺の理性で、区別を付け続けてみせる」ぽつり、呟いた。
「ん? 何か言った?」
振り返り、首を傾げる女に彼は言った。
「いえ、何でもありません。課長」
職場では決して、彼女を上司ではなく妻とは呼べないのは、少し寂しいが。
―了―
失言注意~( ̄ー ̄)
写真に写り込んだと言う、その影が気になって、私は小さ目の旅行鞄を持って、列車に乗った。
本来なら何気ない日常を写しただけのスナップ写真。
やや傾き始めた陽の差すいつもの教室で、仲のいいメンバーが雑誌を回し見ながら話に興じている。何で態々撮ったのかも解らない程、他愛ない、そんな写真。
でも、椅子に座った私の背後にそっと、あの人の面影を持った何かが、立っているのだと言う。
写真が撮られた当時――約三年前には何も無く、そしてあの人は旅先から絵葉書をくれたと言うのに。
〈心霊写真って後から浮かんできたりするものなのかなぁ?〉
昨夜気が付いて驚いたからと電話してきた友人は、そう言った。
「心霊写真だなんて……縁起の悪い事、言わないでよ」反射的に、私はそう反駁した。「啓太は未だ行方不明なんだからね。心霊写真だなんて……死んだ訳じゃ……」
〈ご、ごめん、沙耶〉
電話の向こうで、慌てた様子で謝る友人。
そう、あの人――啓太は旅に出た儘、未だ帰って来ない。不定期に送られて来ていた絵葉書も、もう二年、届かない。一人旅での音信不通を心配した啓太の両親が捜索願を出したけれど、未だ手応えはないらしい。彼に似た人が保護されているという情報が入れば直行したり、果ては身元不明の遺体を確認しに出向いたりもしたそうだけれど……。
でも、遺体が見付からない以上、彼は生きている。少なくとも、法的には。失踪から七年を経過しない限り。
兎に角、気にはなるから実際に見たい、と私は二年振りの帰郷を決めた。
列車を何本か乗り継いで、やっと辿り着いた郷里は殆ど何も、変わっていなかった。
駅前にはコンビニの一軒も無く、乗客を待つタクシーの長い列も無い。友人が車で迎えに来てくれていて、助かった。その儘彼女の家に行き、件の写真を見せて貰う事にした。
「取り敢えず一息ついてから」と、麦茶の後に出されたアルバムを、私は食い入る様に見詰めた。
アルバムは学生時代のスナップを中心に構成されているらしく、被写体の殆どが、私も知った場所、知った人達だった。懐かしさが溢れ、ページを捲る手が遅くなる。
その一枚に、解り易いようにだろう、付箋が貼られていた。手が、完全に止まる。
懐かしい教室、懐かしい仲間。そして当時の私の後ろには……。
「啓太……」唇が戦慄く。泣きそうな程の懐かしさからなのか、恐怖の所為なのか、自分でも解らない。
只、確かにそれはあの人だった。
「な、何か昨日よりはっきりしてる……!」横から覗き込んだ友人が目を見張る。「やっぱり……」
心霊写真、という言葉は飲み込んだ様だ。
けれど、私にもこれが異常なものなのだとは、解った。私の背後に立つ、彼の姿は半透明で、後ろの黒板が透けて見えている。
だとすると、やはり彼は……?
友人の了承を得て、私はその一枚をアルバムから取り出した。万が一、友人の手の込んだ、そして質の悪い悪戯という事も考えられる。だが、少なくとも肉眼で見る限り、合成らしき痕跡は見付からなかった。
「どうして今頃……」私は呟いた。
「沙耶……」友人はしんみりとした声で、優しく応えてくれた。「きっと、心は沙耶の傍に居るって事じゃないかな。ほら、後ろから覗き込むみたいにして、見守ってくれてるみたいじゃない」
「そうね……」私は何度も頷き――喉から嗚咽が漏れた。
結局私は友人からその写真を貰い、実家に立ち寄って明日、街に戻る事にした。車で送ると言う彼女に、懐かしい風景を味わいたいからと断りを入れて、歩く。
彼女の家から、いや、町の中心部から実家迄は短いが山道を越えなければならない。片側は山、もう片側は切り立った谷。いずれにも鬱蒼とした樹木が茂り、見通しは悪い。
丁度急カーブを描くその道で、谷側のガードレールに歩み寄り、私は写真を取り出した。
「見守ってくれてる……か」
ぴり……。私の爪が写真の端に掛かる。
「俯いてるから、覗き込んでる様に見えるのね。でも……」
ぴりり……。写真の亀裂が広がっていく。
「そんな訳ないじゃない……!」
びりっ!
私と、その背後の影との間を切り裂く様にして、写真は真っ二つになった。私の手は、狂った様にそれを更に細かく千切っていく。
そんな訳ない、そんな訳ない……そればかりを心の中で繰り返す。
だって、旅先から町に戻って真っ先に会いに来てくれた彼を、此処から突き落としたのは私なんだもの。
遺体が見付からないのをいい事に、行方不明になった彼を心配する女を演じているのは私なんだもの。
七年……七年経てば、法的に彼は死んだ事になり、周りだって私が諦めても仕方ないと思ってくれる……。例え死亡が認められても、遺体が見付からなければ、死因は特定出来ず、私が罪に問われる事もない。
そんな打算で動いているのが、私なんだもの。
見守ってくれる筈がない。
例え今、どれだけ後悔していようとも。
動機は絵葉書だった。
いつも旅先で出会った女の子の事しか、彼は書いて寄越さなかった。旅先だから返信も出来ない。真偽を問い質す事も出来ない。そうしてふつふつと嫉妬の炎をたぎらせる私の前に彼は帰って来たのだ。
本当は離れている間も私の気を惹きたくて、嘘を書いて寄越したのだと知ったのは、彼の両親がその足跡を辿り出した後の事。当然、手遅れだった。
私はそっと、ガードレールから身を乗り出してみた。
けれど、その身を投じる事はしない。
私は見守られる資格もない女。
だから、貴方の元にも未だ行けない。
谷を吹き上がってくる風に散り散りに舞う写真の残骸を見上げて、私はそっと踵を返した。
―了―
長い!(--;)
梅雨空が僅かに晴れ間を見せたその日、千佳は傘を買いに出掛けた。
先週借りた時に壊してしまった友人の傘を、買って返そうと。
これ迄雨続きの上に何やら忙しくしているのか、肝心の友人と連絡が取れず、延び延びになってしまっていた。出掛けるには問題の壊れた傘しか無く、また、雨に濡れた路面を見ると、億劫という以上に出たくないという感情が働くのだった。
元々の彼女自身の傘は大学に置きっ放しになっていた。
だからこそ、同行した出先で急な雨に降られた彼女に、自分は家が近いからと友人は傘を貸してくれたのだ。
それなのに、壊してしまった。
――彼女の好きな水色の傘を買って、返そう。大き目の傘が好きだったもんね。壊した傘も大きかったし。
真新しい傘のデザインを思い描きながら、千佳は駅前のデパーへと歩く。
――お詫びの意味も込めて、少し上質な物にしようか? でも、余り仰々しくすると却って気を遣わせちゃうかも……。
本人に選んで貰うのが一番手っ取り早いが、生憎と未だに友人とは連絡がつかない。
――どうしてるんだろう? 携帯もずっと留守電だし。心配だなぁ。
千佳はふと、立ち止まり、携帯を取り出した。友人のアドレスを呼び出し、通話ボタンを押す。
数回のコールの後、応えたのは機械的な留守番サービスの声。溜息をついて電話を切ろうとしたものの、ふと思い直して彼女はメッセージを吹き込んだ。
「もしもーし、千佳だよー。サトちゃん、元気にしてる? ごめん、この間借りた傘ね、壊しちゃったんだ。本当、ごめんね。これから買って返しに行くからね。時間、大丈夫かな? また電話するね」
兎に角、また雨が降り出さない内に、さっさと買い物を済ませて彼女に会いに行こう。千佳は再び、歩き出した。
デパートの入り口に辿り着いた時、彼女の携帯が鳴った。慣れ親しんだメロディー。友人用に設定した着メロだった。千佳は慌てて携帯を取り出す。
「もしもし」久し振りの会話に、声が弾む。
が、返って来たのは懐疑に満ちた、友人の詰問の声だった。
〈貴女、誰? どうして千佳の携帯番号で、それも千佳の声であんなメッセージが残せるの?〉
暫し、言われた意味が解らず、千佳は狼狽えた。
「あ、あの、サトちゃん? どうしてって……私、千佳だし、これ、私の携帯だし……。何? 何で怒ってるの?」
〈何でって……。怒るわよ! 傘の事迄持ち出して……。こんな冗談、最低よ!〉
「じ、冗談? 何の事? 傘の事はごめん! 壊しちゃって。本当にうっかり……うっかり……?」詫びながら、どうして傘が壊れたのか思い出せない事に気付き、千佳は愕然とした。「あれ……? 何でだろ? 傘、何で壊しちゃったんだっけ……?」
〈何でですって? 白々しい。どうせ全て知ってるんでしょ? あの日……千佳に貸した傘は……あの大きさで視界を塞がれた千佳は、交差点を左折して来る車に気付かずに……。その時、傘も、千佳の携帯も壊れたのよ! だから、この番号で掛けてこられる筈がないの! なのに、何度も着信があって……。況してや……何で? 何でそんな……千佳そっくりの、ううん、本人としか思えない声なの……? 千佳、もう……居ないのに……!〉
いつしか嗚咽交じりの涙声となった友人に、千佳は暫し、返す言葉もなく立ち尽くした。
――じゃあ、私は……そうだ……思い出した……思い出しちゃった。
「……サトちゃん、ごめんね。あれは傘の所為じゃないから。凄い雨と風の音で、車の音にも気付かなかった私の不注意だよ。だから、サトちゃんの所為じゃあない。私、本当にうっかり屋で……自分が死んだ事迄、今迄気付かなかったなんてね」千佳の苦笑にも、涙が混じる。「ごめん、やっぱり傘、返せないわ。私、あの世とやらに行かなきゃならないみたいだし」
〈……千佳……あんた、本当に、千佳なの?――ううん、千佳なのね。本当にどうしようもないうっかり屋さんなんだから……!〉
「ごめんね」頬を伝う涙を拭いもせずに、千佳はもう一度、詫びた。どうせこの姿も、他人の目には映っていないのだろう。「じゃ、行くね」
〈千佳!〉
愛惜と後悔、様々な思いと涙の籠った友人の声に、千佳は最期に一言残して、通話を切った。
「サトちゃん、きっとね、あの世への道はずっと雨なんだよ。残された人の涙雨。でもほら、私、壊れた傘しか持ってないから……あんまり降らせないで? ね?」
もう、泣かないで、と千佳は空を見上げた。
―了―
最近幽霊物が多いな(--;)
そしてやっぱり怖くならねー(笑)
植木鉢が割れた音がした。
紗枝は溜息をつく。これで何度目だろう?
幾度、そして家の何処に置いても、彼女の育てる鉢は割られてしまう。
家の中には、彼女一人しか居ないと言うのに。
二箇月前、窓辺に置いた鉢が室内に落ちていた時は、風に吹かれたのだろうと思っていた。その日は大して風が強くもなかったけれど、不意の突風というのはあるものだ、と。
一箇月半程前、玄関に置いた鉢は丸で断ち割られた様に、真っ二つになっていた。出入りする時に荷物をぶつけてしまったのだろうか。それにしても見事な割れ方だったけれど。
それからも、居間に置こうが、ベランダに置こうが、寝室に置こうが、鉢は割れ続けた。
そして今夜も、キッチンの流しの横に置いた鉢が割れていた。
「そんなに育てさせたくないのかなぁ……」鉢の破片と土を片付け、茎が折れてすっかり駄目になってしまった草花を見詰めて、紗枝は呟いた。「使いやしないってのに……トリカブト」
伯母が急な呼吸困難で斃れてから三年。
留守番も兼ねて借りている海外長期出張中の伯父の家だが……此処に居る内は個人的に一番好きな、この紫の花を育てるのは難しいかも知れない、と紗枝は溜息をついた。
それにしても、時効が取り払われた今、伯父は一体いつ、帰国するのだろう?
―了―
短く行こう!
今日みたいな晴れ渡った青空が広がる日に、香津美と一緒に、下山したいなぁ。
だけど、予定されていた治療はまた、延期されたみたい……。難しく、未だ確実ではない治療だとは聞いていたし、何度目かの延期に、僕も少し、慣れてきてしまったけれど。
それでも、やはり落胆せざるを得ない。人里離れた山中に造られたこの施設にも、そしてその運営団体にも、不信感が募っていく。今抱えている病気の治療の為の静養施設だとしか、両親からは聞かされていない、その所為もあるだろう。
だけど、今日は前々から気になっていた、この静養施設の中庭にある卵形っぽいオブジェの意味を知りたいという欲求は満たされた!
……でも、僕はこれを施設内の誰にも言わない。特に、早く下の街に降りられる事を願っている、此処で友達になった香津美には。
中庭の生垣の迷路に囲まれて、オブジェはぽつんと立っていた。
百五十cm位の石の台の上に置かれた、銀色の、卵。但しそれは尖った方を下にしていて、甚だ安定感に欠ける。勿論しっかり固定されているのだから、転がる心配などないのだが、見る度に危なっかしいなと思ってしまう。
材質はステンレスなのか何なのか、金属光沢で、曲線の所為だろう、見る者の顔を少し歪んだ鏡像として映し出す。
何を意味しているのか、全く解らなかった。インフルエンザのワクチン製造には大量の有精卵を必要とするそうだけれど、この病の治療薬にも卵が関連しているのだろうか?
そんな事を考えながら、他にする事もなく散歩していた時だった。
不意に迷路の一角から、院長先生が現れた。五十代半ばだろうか、すらりと背の高い男性で、此処の施設の代表役で、医師でもある。だから僕達は「院長先生」と呼んでいる。
診察室で会う時には当然だけど白衣で、少し冷たい印象のある院長先生だけど、香津美は優しい人だって言ってる。本当にこの施設の子供達の事を案じてくれている人だって。
その院長先生は、生垣迷路に隠された僕に気付く事なく、例のオブジェに向き合って立った。先生は背が高いから、少し、見下ろす様になる。
そして口を開いた。だが、ぼそぼそと低くてよく聞こえない声に、僕はそっと生垣を回り込んだ。
「今日も君達の元に誰も送らずに済みそうだよ……。ああ、解っているよ。この病は急変する事が多いからね。子供達からは目を離さないようにする。君達の……この研究施設初期に、救うどころかその苦しみを和らげる事も出来なかった、君達の犠牲を無駄にしない為にも、私は完全な治療法を模索し、確立してみせる。後少し……後少しだと思うんだ」そして彼は瞑目し、祈る様に呟いた。「今居る子達が、最後の礎であるように……」
礎……建物の土台として、柱の下に据えた石。転じて、元となる物、人……。
治療法が未だ確実ではないとは聞いていた。病状を見て、何度も延期させられる程に、デリケートなものなのだと。それでも、いつかは治療を終え、下山出来るものと思っていた。僕も、香津美も、他の子供達も……。
けど……治療法は未だ研究の途中だったんだ。
そして僕達はその為のモルモット。どうやら慰霊の為に造られたと思しきあのオブジェに向かって院長先生が言う「君達」と、きっと同じ……。
両親がそれを知っていて僕を預けたのかは解らない。けれど、滅多に会いには来ず、電話の声が震えていた事もあった――それから察するに、覚悟はしているという事だろう。それでも一縷の望みを掛けてはいるのかも、知れない。
きっと、他の子供達の身内も……。
だから、僕はこの事は誰にも言わない。皆は治療を終えて、元気になってこの山を下りられるんだって思ってるから。それが嘘だと訴えたって、誰も喜ばないから。
絶望は病の治療や抑制にプラスには働かない。
いつか治る――無理矢理だけど、僕自身そう信じる事にする。
いつか、晴れ渡った空の下、此処を出られるんだと……。
―了―
暗くなったー(--;)
手術すれば元気になる!――それは子供時代の私の支え。
「この頃ね、私によく似た人を街中で見掛けたって、何人もの知り合いに言われるのよ」微苦笑を浮かべて、理美は言った。
「理美によく似た人?」私は目を丸くした。「そんな子、そうそう居るのかな?」
小振りの卵形の顔に白い肌、黒目がちの大きな目に小さな唇。背中迄伸ばした髪は少し色が薄くて、窓からの木漏れ日に透けている。全体的に小柄で、手足は細く華奢で……お人形の様な女の子。それが理美だった。
一方私はと言えば、無駄に健康的に焼けた肌、目も大きければ口も大きい。髪なんて真っ黒で硬い。まぁ、十人並みだとは自分でも思うけど……結局それ以上でもないと、やっぱり自覚している。
詰まり私みたいな女子高生なら、その辺に居そうだけど、理美の様な子はそうそう居ないんじゃないかと、私は小首を傾げる。
「まぁ、遠目に似た感じの子位は居るかも知れないね」私の言葉に理美は頭を振った。
「直ぐ横を擦れ違って、慌てて声を掛けようとしたらもう居なかったとか、割とちゃんと顔を見てるらしいの」
「それだけ近くで見てもよく似てるって?」でも、振り返ったら居なかったなんて、足の速い所は似てないんだ、と内心、苦笑する。理美はお世辞にも、足が速いとは言えない。
「それで、少し……気味が悪くて……」
「気味が悪い? まぁ、あんまりそっくりな人が近くに居たら、混乱しちゃうかもね」
「美奈ちゃん。ドッペルゲンガーって知ってる?」不安そうな顔でそう尋ねる理美に、私はゆっくりと、頷いた。
ドッペルゲンガー。単純に訳すと「二重に歩くもの」となるらしいけど、要するにある人によく似た幻姿、それも霊的なものと関連付けられる事が多い様だ。
本人が会ってしまうと寿命が縮むとか、死ぬとか言われている。
所謂生霊の類なのだろうか? 縁起の悪い言い伝えは、寿命尽き掛けて弱っている人の魂魄が抜け易く、それが目撃されたのだろうという説もある。
……本当に、縁起の悪い……。
「実は生き別れの双子の姉が居たとか、只の他人の空似とか、見た人がうっかりさんだったとか……」私は色々と、可能性を上げていく。「ドッペルゲンガーなんて御話かゲームの中に出て来るもんじゃない。気にする事ないって」
「そう……よね」理美は傍目にも無理が窺える笑みを浮かべ、それでも健気に頷いた。
その気を少しでも紛らわせようと他愛のない話をして、面会時間終了ぎりぎりに、私は彼女の病室を後にした。
日が長くなったとは言え、夕方の陽は直ぐに傾いて行く。
私は薄闇忍び寄る黄昏の中、前から歩いて来る女の子を見据えた。
卵形の小振りな顔に、大きな目、小さな唇。全体的に華奢で、色の薄い長い髪は夕日の色に染まっている。
近付き、お互いの顔がはっきり見えてくるに連れ、微かに、口角が上がっている様が見えた。
でも……。
「理美はそんな笑い方、しないよ」擦れ違い様、私はきっぱりと言い放ち、振り向いて尚も言葉を続けた。「あんたみたいな意地の悪い笑い方しない! そんなに真っ黒で生気のない目もしてない! 何よりそんなに不細工じゃない!」
驚いた様な、ショックを受けた様な顔をしていたそれは、私の間の前ですぅ……っと、消えて行った。
それ以来、理美のそっくりさんの目撃談は聞かれない。
え? あんな事を言って、もし普通のよく似た人間だったら、どうしたのかって?
あれはその表情を除けば、どう見ても理美本人だった。けど、理美はその当時、病室から出る事さえも禁じられていたから、本人の訳はない。第一、あれは向こうから歩いて来た。理美が病院を抜け出したとしても、私の先回りなんて出来る筈がない。彼女はお世辞にも、足が速いとは言えないんだから。
その理美も、もやもやが晴れたのか、順調に快復している。
只……この所、私のそっくりさんがよく街中で目撃されているらしい。
―了―
眠い眠い♪