『隠し場の鍵』

「知らないよ、そんな鍵」二十歳前といった所だろうか、髪を中途半端に脱色した青年は、少女が差し出した鍵を一瞥して、そっぽを向いた。
　忘れ物だと差し出された鍵に、しかし青年はほんの僅かに、心当たりがあった。
　だが、それは葬りたい記憶――彼は少女に背を向けた。
「おかしいわね」少女の独り言めかした呟きが耳に刺さる。「学校近くの空き地から出て来たの、確かにお兄さんだったと思うんだけど……。これ、その時に拾ったんだけどなぁ」
　首だけを捻り、横目で少女を見遣る。
　茶色い髪に青いリボンのよく似合う、青い服の可愛らしい少女。十歳前後だろうか。見覚えはない、と青年は断じた。
　しかしあの時、誰も居なかったと思ったのに、何処からか見られていたのか……。
「そう言えばあの空き地、プレハブがあったわね。もしかしたらこの鍵、そこのなのかしら？」
「……随分その鍵に拘るんだね。そんなに気になるんなら、これから行ってみようか？　そのプレハブに」
　青年の言葉に、少女は笑って頷いた。

　小学校の建物を間近に望む、ぽっかりと空いた土地。周囲を薄っぺらいトタン板に囲まれ、入り口には錆びたチェーンが掛かっている。
　しかし防犯用としてはかなり心許ないそれらを易々と突破して、青年と少女は空き地に侵入した。
　草茫々の空き地。しかし意外にも、その中に建つ件のプレハブの周囲はそれ程荒れてもいなかった。
「人が出入りでもしてるのかしらね？」という少女の呟きを無視して、青年はそのドアの前に立った。
　青年が無愛想に差し出した手に、しかし怯えた様子も怪訝な風もなく、少女は例の鍵を乗せる。
　鍵はすんなりと鍵穴に嵌まり、放置された建物としては意外な程、滑らかに回った。
「やっぱり此処の鍵だった様だね。折角だから、何の建物だったのか、中も見て行こうか」青年はそう言い、少女を誘って先ずは自らが足を踏み入れた。足音がぎしりと響く。
　しかし、付いて来るかと思われた少女の足音は続かなかった。

　警戒されたか？――青年が振り返り、ドアの外を検めるが、そこにはもう誰も居ない。建物の裏側に回りでもしたのだろうか？　しかし、裏に回ったとしても立ち去ったにしても、丸でそこには元から誰も居なかったかの様に、草の波一つ、立ってはいない。空き地入り口のチェーンも然り。
　舌打ちしつつ、急いで追い掛けようと脚を踏み出したものの、ふと思い直してプレハブに戻り、人目を避ける為にドアを締め切って青年は思案を巡らせる。
　此処の事を知られているのは面白くない。だが、下手に騒ぎになっては藪蛇だ。彼女は只、此処から出て来た何処かのお兄さんが落とした鍵を拾って届けた、それだけにしか思っていないかも知れない。鍵の正体が判って、満足して帰って行っただけなのかも。
　そうだ、これ以上関わらない方がいいだろう。自分とこの鍵の関係は誤魔化す程の事もない。かつてはこのプレハブ事務所でバイトをしていたのだ。当時、所員は入れ替わり立ち代りだった所為もあり、殆どの者が鍵を預けられていた。然も、その内に元々出張所だった此処は撤退する事となり、鍵が手元に残された者も少なくない。実際時折、一人になりたくなった時には此処で静かな時間を満喫する事もあった。
　だからあの時――今考えれば安易な選択だったとも思えるが――隠し場所として、此処を思い出したのだ。

　一箇月程前だろうか。
　夕暮れの中、小学校前の坂道を、風を切って自転車で疾走していたのは。面白い程スピードが乗り、爽快な気分だった。ちょっとした違反で免許停止を食らっていた彼には、久し振りの疾走感。それは高揚感となり、彼自身のブレーキを緩ませた。
　もう終業時刻を過ぎ、学校からも子供達の喚声は無く、道にも人っ子一人居ない。
　だから気が緩んでいたのだ。真逆、未だ残っていた子供がたった一人、彼の進路に飛び出して来るなんて――彼は今更ながらに歯噛みした。
　長く続く下り坂、スピードの乗った自転車が安全に停まれる訳はなく、つんのめる事を恐れて躊躇したブレーキは当然の様に、間に合わなかった。
　衝突音と遅まきながらの甲高いブレーキ音、子供の悲鳴。
　それらの雑音と転んだ際の痛みの中で彼が考えたのは、如何にしてこの事故を無いものとするか、だった。
　この儘逃げるか――しかし、子供に自分の特徴を覚えられていたら？　自転車や、服装や、この中途半端に脱色した髪や、この顔を。彼は慌てて子供の意識を確かめる。
　そして、もうその心配がない事を知った。
　子供に意識は無い。それどころか……。
　意図せずとも殺してしまった子供と、フレームのひん曲がった自転車をこの空き地迄運んで来られたのは、まさに火事場の何とやらだろうか。
　そうして彼は、取り敢えずの隠し場所として、このプレハブの床板の一部を剥がし、少年の亡骸を埋めたのだった。
　
　自転車は再度足を運んだ現場から回収した小さな破片などと共に川に放棄した。
　二、三日して、小学校周辺を中心に行方不明事件への捜査協力の看板が設置され、彼はそれらを見掛ける度に、目を伏せて歩く事となった。
　それからも彼は時折プレハブを訪れ、遺体を移動する時機を窺っていたのだが、捜索に動いているのだろう警官達の目を恐れ、また確実に隠し遂せる当てもなく――移動を断念し、鍵を草叢に投げ捨てた。
　少女が彼を目撃し、鍵を拾ったのはその時だったのだろう。手の中の鍵を弄びつつ、青年は建物の片隅に詰まれた段ボール箱に目をやった。その下に、件の遺体が埋められている。
　今頃はもう腐敗して……。
「！」その想像に背筋を寒くし、此処から早々に立ち去ろうと青年はドアノブに手を伸ばした。
　しかし――。
「開かない!?」慌ててガチャガチャとドアノブを鳴らすも、それはどうにも回らない。うっかり鍵を掛けてしまったのだろうか？　しかし、握った儘だった筈の鍵は、今、彼の手に無かった。ポケットを探り、床を這い回るが何処にも無い。
　いや、少し離れた床に転がっていた。
　ほっとしてそちらへと踏み出した脚が、再び止まる。
　その鍵の先には問題の段ボール箱。その下には……。
　馬鹿な、死体なんて怖いものか――強がりを込めて唾を飲み下し、それでも出来る限り遠くから手を伸ばす。不自然に伸びた体勢で鍵だけを見据える彼の視界の端を何かが過ぎった気がした。
　そして無防備な首筋に、硬くも湿り気を帯びた、冷たい感触――それが何かを悟ったと同時に、彼は意識を失った。

「ご苦労様」鍵を元の物とは違う鍵束に繋ぎ、少女は囁いた。「今度こそ、ね」
　冷ややかな目で、草地の中に建つプレハブを見遣り、鼻を鳴らす。
「ま、死にはしてないもの。ちゃんと罪を償うのね――これでも未だ隠して逃げる様なら……どうしようかなぁ？」
　くすくすと、夜の闇に笑い声が流れ、それが街の音に紛れるよりも先に、少女の姿は何処へともなく、消え去っていた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―了―

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　車も自転車も安全運転！
　因みにこの鍵＆プレハブ、前回家出少年に予定外に渡された奴です（ありす、何て鍵渡してんだ・汗）
　今度こそ、お勤め終了。