『不登校？』

「夜霧がサボりだと？」眉間に皺どころか柳眉を逆立てて、京は喚いた。僕が小声で耳打ちした意味が無いじゃないか、馬鹿兄貴。
　それにサボりと決まった訳じゃない。始業前に日直として日誌を取りに行った時に、他の先生方が寄り集まって話しているのをちらりと聞いただけだ。こんな時間迄来ないのはおかしい、と。
　夜霧――夜原霧枝先生が未だ来ていない、と。
　どうやら連絡も無く、こちらからの電話にも応答なしという事で困っているらしい。
　気分屋で有名な夜霧だけど、無断欠勤なんてこれ迄無かったし、そんな事をする人ではなかったのにと、皆困惑顔だった。
　取り敢えず、夜霧は僕達の担任でもあるので、僕を見付けた先生の一人が仰った。連絡は続けてみるが、もし来ない様であれば病欠という事にするので巧く誤魔化して取り仕切ってくれと。先生、どうやら双子の僕と京の区別が付いていないらしい。
　だから僕はそれを京に伝えたんだけど……喚くなよぉ。兄貴ぃ。
　結局、巧く誤魔化して取り仕切るどころか、教室中は疑問符の大洪水に陥った。

「幾ら気分屋の夜霧でも授業をサボるって考え難いよなぁ」勇輝が唸った。
　既に朝のホームルームの時間なのだが、混乱は収まっておらず、推理大会が始まってしまっていた。
「夜霧先生は確かに気分屋だけど……真面目な先生だものね」と、月夜。「事故にでも遭って連絡も出来ないんじゃないかしら？　心配だわ」
　どうも彼女は夜霧を買い被り過ぎている感が無いでもない。
　けれど、実際それはあり得る事だ。自宅からの通学途上、何があるか解らない。僕達の様に寮から大勢での移動という訳じゃあないんだから、人通りの少ない道だってあるだろうし、そこで事故に遭ったり具合が悪くなったりでもすれば。いや、そもそも彼女は確か一人暮らし。そこで具合でも悪くなったとしたら……。
　そんな心配を抱えていると、結局職員室に乗り込んだ京が一つの情報を持って戻って来た。
「先生が一人、夜霧の自宅に向かったそうだけど、自宅には誰も居なかったそうだ。マンションの大家さん立会いで確認させて貰ったそうだから間違いない。そして通学路周辺でも見付かっていない」
「家は出たけど、何処に行ったか解らないって事か……」僕は眉根を寄せ掛けて慌てて額の緊張を解く。こういう所は京に似たくないんだ。「学校に着いた様子も無いの？」
「風紀委員？」京は月夜を振り返った。「今朝は当番じゃなかったのか？」
「今朝はＤ組の子」月夜は頭を振った。「訊いてみたいけど、もう授業が始まっちゃうわ」
「じゃあ、一限目の休み時間にでも……」僕がそう言い掛けた時だった。
　ガラリと戸が開き、いつもにも増して不機嫌そうな顔の夜霧が姿を見せたのは。

　どうしたんですか!?――クラスの殆どが思わず口を揃えてそう尋ねた様に、夜霧は酷い有り様だった。
　色白の顔にも手にも何かに引っ掻かれた様な傷。スーツも所々、泥等の染みが見える。膝なども擦れているし、アップにした髪だって所々解れ髪。
　転んだだけ、と言う夜霧の話を、信じる生徒は勿論居なかった。大体それで無断遅刻する先生なんて居ない。
　しかし、次の授業が迫っていた事もあり、追及する時間は無く、彼女は美術準備室に行ってしまった。
　一時限目の数学が頭に入らなかった事は言う迄もない。

　休み時間に再度京が職員室に足を運んだ。その間にも教室では勝手な憶測が乱れ飛ぶ。
　と、殆どの生徒が残る中、栗栖と勇輝が動いたのを見て、僕は自然と二人の後を追った。
「なぁ、祥？」僕に気付いて栗栖が言った。「この学校内で、大人が膝立ちして身を屈めんと入られへん様な所、心当たりないか？」
　膝立ちして尚且つ身を屈める？――僕は首を捻った。
「机の下とか、教卓の下とか……屋外だったら、百葉箱の下とか？」探せばもっとあるかも知れないけど、と付け加えつつ僕は答えた。
「先ず屋外やな。夜霧のスーツ、泥の染みが付いとったし。屋内やったら土は付いても泥は付かへんやろう」そう言って、栗栖は裏庭に向かった。そこには百葉箱がある。
　白い板目は近くで見ると所々剥げて、年代を感じさせた。殊に栗栖がしゃがみ込んで調べている脚なんかは、低い位置に引っ掻き傷の様なものが無数にあり、下には白い木屑が無残に散っていた。
　ひょい、と身を屈めて入ってみた勇輝は、頭をぶつけないように注意していた。
「夜霧は俺よりちょっと低い位。然も髪はアップ。膝を擦って髪を解れさせるには丁度いいサイズかもな」狭い場所から出ながら、勇輝は言った。「しかし、何だってこんな所に入ってたんだ？　ホームルームに遅刻迄して」
　それは詰まり、夜霧が今の勇輝の様な行動を取っていたという事なのか？　それも職員室にも姿を現さない内に。
　何故？
　その問いに答えたのは、やはり栗栖だった。
　百葉箱の下から何かの白い毛と、白い殻の様な物を摘み上げ、次の休み時間は美術準備室へ行こう、と言った。
　因みに京は、職員室でやはり夜霧の言い訳を、信じていない風な先生からそれでも仕方なしに聞かされただけだった様だ。

「準備室とか持ってる先生はええよなぁ。然もこの学校、美術教師は夜霧だけ。個室同然や」休み時間、今度は京も含めた四人で、僕等は件の部屋の前に立っていた。
　栗栖のノックの後に、ややあって夜霧が顔を出した。
「どうかしたの？」戸を細く開けて、夜霧は訝しげに質した。
「休み時間も短いんやし、単刀直入に言います」栗栖は笑って言った。「猫、見せてくれませんか？」
　猫!?――夜霧と共に呆気に取られながら、僕と京と勇輝は栗栖を見詰めた。
　栗栖はハンカチを取り出し、それに保管して置いたらしい先程見付けた白い毛と殻の様な物を差し出した。
「毛は見た目だけでは猫とも犬とも知れんけど、この白い殻みたいのん、猫の爪の鞘や。百葉箱の足の爪研ぎ跡に刺さった儘になってましたよ」
「それは、詰まり百葉箱の下に猫が居たって事か？」京の確認に栗栖が頷く。
「未だ木屑が残ってた所からしてごく最近、低い位置からしてもそれ程大きな猫やない。多分、未だ仔猫や。登校して来た先生は鳴き声でかそれに気付いて捕まえようとしてあの下に潜り……そんな状態になって、おまけに遅刻したんや」
「……なかなか手に掛からなかったのよ」諦めた様な拗ねた様な、どこか子供っぽい表情で、それでも夜霧は戸を開き、道を開けた。「あんな所に居て用務員に摘み出されちゃ可哀想だと思ってるのに、こっちの気も知らないで……引っ掻かれ放題よ」手の傷はどうやらその所為らしい。顔も抱き上げた時にやられたそうだ。
　何処からか資材を入れていた木箱を持って来たらしく、タオルの敷かれたその中で白い仔猫は丸くなっていた。蒼い目を開いたそのちび猫を、意外と動物好きの京が目を輝かせて早速抱き上げようとして、引っ掻かれている。
「こういう事なら最初から言えば良かったのに」勇輝が苦笑する。
「教師が猫の所為で遅刻したなんて、言いたくなかったのよ！」
「いいじゃないですか」と、僕。
「他の先生方にも知られたくなかったの。生徒に示しが付かない、とか言われそうだし」
　夜霧に文句を言える先生なんて、殆ど居ないと思います――という言葉は一応胸にしまっておいた。
　それは兎も角――。
「取り敢えず保護はしたんだけど……うちはマンションだし、飼える人に心当たり無い？」という夜霧の問いに、僕と栗栖は顔を見合わせて頷いた。生憎今現在飼える人には心当たりは無いけれど、探し方を知っている奴等に心当たりがある。実際、仔猫をいい飼い主に引き合わせた実績持ちの後輩達が。彼等にもう一度、募集を出して貰おう。
　さくさくと話を進めて行く僕と栗栖をきょとんとした顔で見ていた京は、しかし直ぐに勇輝と一緒に仔猫をあやす方に集中し、いつぞやの事は記憶に上らなかったらしい。あ。眉間の皺が解けてる。
　夜霧もどこか優しげで……短いけれど、妙に穏やかな時間だった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―了―

---

　夜霧がサボったから～♪
　それだけ（＾＾；）