『声の無い日』

　声が出なくなるなんて思ってもみなかった。
　それ迄二十数年、よく喋り、よく笑い、よく歌ってきた私が。
　ある朝、余りの喉の痛みに風邪だと思い、近くの医者へ行った私は、それが病気などではなく、誰かによって飲まされた薬が原因だと知らされた。そう言えば深夜の飲み会で、喉が焼け付く様なやけに強い酒を勧められた覚えがある。あれに混ぜられれば少々おかしなものでも気付かなかったかも知れない。
　あれは誰だったろう？――普通ならそんな強いお酒なんて飲まない筈なのに、もう相当酔いが回っていたのだろうか。全く前後の経緯を覚えていないなんて……。

　よぉく思い出してみる。昨夜は私の声掛けで、高校以来の付き合いのある女ばかりの集まりだったんだわ。皆気心の知れた中。私を含めて四人。一応私がリーダー格で、だから私が言い出す事が多かった。
　それに何より、私が一番、時間的に自由だったから。
　フリーターで生活しながらのライブ活動――勿論依頼がある様なミュージシャンじゃない。寧ろ出させて貰ってる立場だ。今は未だ。
　後の三人はそんな私を――内心呆れてるかも知れないけど――応援してくれている。それぞれ奥様に納まっていたり、シングルマザーだったり、ＯＬだったり……それぞれの生活を抱えているけれど。
　それでも私が声を掛ければ集まってくれる。落ち込んだ時には愚痴を聞いてくれたり、励ましてくれたり、叱ってくれたり……そんな仲間だった筈。
　なのに、その中の誰かが酒に何か劇物を入れた？　私が喉をどれだけ大事にしているか、解っているのに？
　そんな馬鹿な事！――私は信じられない思いで医者の診断を噛み締めていた。治療をすれば治るには治るらしいけれど、一度荒れた喉が完治するには時間も掛かる。その間、勿論、ボイス・トレーニングも出来ない。普通に喋る事すら出来ないんだもの！
　どうしてこんな事に……とぼとぼと、昨夜の飲み会の会場ともなったマンションへと帰りながら私は考えた。

　普通に考えれば、三人の内の誰かが私に某かの恨みでも抱いていたのに違いない。それとも、ここ迄酷い薬だとは思わずに悪戯の心算で仕込んだのか――ううん、選りによって喉に作用する物なんて、軽い悪戯でも仕掛ける筈がないわ。
　ならやっぱり……マンションのリビングで、私は昨夜の様子を可能な限り、思い出そうとする。
　硝子テーブルの四方それぞれ、入り口に近い所に面倒見よくて、ご近所さんでもあり、勝手知ったる皐月――名前変わってもその儘呼んでるわ、私達。香住って呼ぶべきなのに――が座り、時計回りに私、市緒、八千代の順で座って、それぞれに飲んだり騒いだり……楽しかった。お酒やつまみはそれぞれに持ち寄った物だった。だからあの酒が誰が持って来たものだったのか、そして誰が注いでくれたものだったのか判然としない。結局酔い潰れたし。目が覚めた時部屋に居たのは子供をお祖母ちゃんに預けて来た八千代だけだった。市緒は翌日仕事があるからと終電に間に合う時間に帰り、午前様になりながらも皐月も帰っていたのだ。
　こんな時、私は少し、自分が嫌になる。皆それぞれの生活があるのに、呼び出したら来てくれて、だからついそれに甘えてしまって……。本当なら市緒も皐月も、もっと早く帰りたかっただろうに。八千代だって預けてあるとは言え、子供の世話があるのに。私が自由過ぎるのかも知れない――そんな反省をしながらも、何かあると頼ってしまうんだけど。
　もしかしたらそれが原因だったんだろうか。本当は不満を持っている誰かが、私のお酒に劇物を……？
　ひっそりと、頬が濡れているのに気が付いた。泣き声は漏れない。空気の掠れる様な音は出るけれど、それはとても声とは言えない代物。それがまた悲しくて、涙が溢れる。
　私は暫く、無言で泣いた。

　少し落ち着いた所で携帯電話を握り締め、逡巡する。電話は当然出来ないし、医者からも喉をこれ以上傷めないように無言の行を言い渡されているけれど、メールなら問題ない。当然、そのメモリーには三人のアドレスも入っている。確かめようと思えば……でもそれは怖かった。仲がいいと思ってきた三人の誰かが、私を疎んじていたなんて――また涙が溢れそうになるのを堪えて、私は同じバンドのメンバーの一人のアドレスを呼び出した。暫く練習にも参加出来ない。もしかしたらもう同じ舞台に立てないかも知れない。何にしても連絡は入れておかないと。
　それは三人への確認を遅らせる方便だったかも知れないけれど、私は彼にメールを打った。喉を傷めて声が出なくなった事、治療すれば治るけれどいつ迄掛かるかは解らない事、そして、散々迷った末、その原因が友人達の誰かにあるかも知れない事。

　返信は早かった。
〈警察へは？〉
　たったそれだけ。心配の言葉も無いその文面にちょっとがっかりしながら、私は〈いいえ〉と返信を打つ。
〈昨夜の状況を覚えてる限り〉
　つくづく短い。内心で文句を言いながらも、私は先程思い出した事を、私の思考も含めて送信する。
　すると、やや間が開いた。真逆犯人探しでもしてるの？　私としては……こんな事になっても友達の誰かを警察に突き出す事なんかより、大変だったな、の一言でもくれた方が嬉しいかも。
　が、やがて届いたのはこんな文面。
〈声、出してみろ〉
〈無理だってば！　薬貰って痛みはひいたけど、無理に声出さない方がいいって言うし、実際出ないし〉
〈じゃ、その薬が切れてからでもいいから〉
〈ちょっと、話聞いてる!?〉
　携帯のキーを打つ手が乱暴になる。何考えてるのよ。心配どころか声を出してみろなんて！
〈それとな、仮にもボーカルが酔い潰れて適当な所で寝るな。そんだけ酒飲んでその儘寝たら風邪ひいても無理ねーよ〉
〈え？　風邪だって言うの？　だってお医者さんが〉
〈その医者が怪しいんだよ。普通なら薬物を盛られたって言うんなら、警察に届けるのが義務だろうが。それをしないってのがおかしい。貰った薬だって調べてみろ。単なる消炎鎮痛薬か、もしかしたらそれが声門を巧く動かないようにしてるのかも知れないぞ。声を出すなって言うのも、一見まともな様だけど声が出せないんだって暗示の役目もあるのかもな〉
〈そんな！　お医者さんが怪しいって言うの!?　でも、どうしてよ？　お医者さんなんて、それこそ恨み買う覚え無いわよ!?〉
〈じゃ、訊くけど、その医者の名前は？〉
　私は医者で作られた真新しい診察券を取り出した。
　そして、ちょっと唖然としながら、それを打ち込む。
〈香住医院〉
〈やっぱりな〉
〈え？　ちょっと待って、これって皐月の嫁ぎ先と一緒って言うか、え？〉
　そう、私達は名字で呼び合っている。だから本当は皐月の事は香住って呼ばなきゃならないんだけど、結局本人も気にしないからってその儘だ。
〈結婚式行ったんじゃなかったのか？〉
〈行ったけど、玉の輿だとは聞いてたけど、あそこのお医者さんだったなんて。同じ白を着てても正装と白衣じゃ全然違うんだもの！〉
〈当たり前だ。ここ迄解れば、そんで彼女達につき合わせて悪いなって思う事があるんなら、何で恨まれるかも解るだろ？　お前が呼び出す度に迷惑するのは彼女達本人だけじゃないんだよ。実際昨夜もその香住さんは午前様だったんだろう？〉
〈うん〉
　短い言葉を返しながらも、私は悪い事をしたと思う。そうだった。家族が居るんだ。皐月――いえ、香住や八千代には。市緒にだって、これから出来るだろうし、今は仕事がある。
〈じゃ、偶々私が風邪で行ったから、あんな事言って脅したの？　酷いけど、何度考えても酷いけど、それだけ、私、迷惑掛けてたんだね〉
〈遊ぶなとは言わないけどさ、いきなりの呼び出しは止めた方がいいんじゃねーか？　これからはさ。計画立てて準備すれば未だその旦那だって解ってくれると思うけど？〉
〈うん〉
　私はメールを止めて、通話に切り替えた。ちょっと恐る恐る、声を出してみる。
「ありがとう」未だちょっと掠れていて、私の声とは思えない位だったけど、ちゃんと、私の言葉は出た。そして今度は嬉し涙も。

　以来、女四人で遊ぶ時は充分に計画を練ってそれぞれの家族に迷惑が極力掛からないようにしている。
　それでも突然愚痴がこぼしたくなった時はどうするか？
　例の彼に電話するのよ！　私以上に自由人なんだから文句は言わせないわ。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―了―

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　ご心配下さった皆様、有難うございましたm(_ _)m
　大分声は出るようになりました。咳もその倍位出るけど（泣）
　皆様も風邪には充分、ご注意下さいませ。これからのシーズンには花粉症にも……☆