〈2007年9月16日開設〉
これ迄の小説等、纏めてみたいかと思います。主にミステリー系です。
尚、文責・著作権は、巽にあります。無断転載等はお断り致します(する程のものも無いですが)。
絵師様が描いて下さった絵に関しましても、著作権はそれぞれの絵師様に帰属します。無断転載は禁止です。
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古い本の匂いは嫌いじゃない。
ちょっと黴臭くて、それでいながらパリッと乾燥していて……。ま、言ってしまえば古臭い訳だが、少なくとも嫌いじゃあ、ない。
尤も、俺にとっちゃあ、物心付いた頃から囲まれていた懐かしい匂いだから……っていうのもあるだろうがね。
未だたった二ヶ月だが――。
「にゃごろう、何うにゃうにゃ言ってんの?」同居人の一人がひょいっと俺の顔を覗き込んで言った。「ミルク欲しい?」
男がミルクなんぞ……みゃあ、俺はそう言ってねだった。
子猫にミルクは付き物だろう? 男だろうが女だろうが。
しかしどうせ意味は解らないとは言え、呟きを他の者に聞かれるとはな……。迂闊だったぜ。然も人間年齢にして五歳の子供に――キャリアは向こうの方が上か。
「まーた、うにゃうにゃ言ってる。はい、ミルク」言って、彼女は俺の愛用のミルク皿を目の前に置き、なみなみとミルクを満たした。うむ、満足。
俺は尻尾の先っちょで礼を言うと、ミルクに舌を伸ばした。生憎、ぐいっと呷る訳には行かないが。
言っとくが俺の名前は「にゃごろう」ではない。
「夜護郎」と書いて「やごろう」と読む。
同居人その1――この古本屋の主が付けた名だ。人間年齢で七十にもなろうかという老人で、立派に店の置物の役を担っている。偶に、客の相手もする様だが。
彼がそう名付けたのも無理はないかも知れない。
母方はスフィンクスという一風変わった血筋らしいが、父親の方は雑種。そんな二匹がどんな経緯で出会ったかは知らないが、俺は父親の血に混じっていた因子が出たんだろうな。自分が言うのもなんだが、見事な黒猫……に、額に白毛。それがちょっと欠けた月みたいだって、その1が言い張った。その5――あの女の子だ――はもっと可愛い名前がいいとごねたが……俺は「バナナ」だの「イチゴ」なんて名は御免だ。その1に感謝。
しかし、この日その1が若い男から買い取ったばかりの古本から見付け出したのは、おかしな物だった。何の事は無い只の紙切れだが……定規で引いた様な字で只一行。
『12-72-61-51-12-83』
「何の番号だろうね?」首を傾げるその1の様子を目敏く見付けたその5が、同じ様に小首を傾げながら言う。「ね? お祖父ちゃん」
その5はお祖父ちゃんっ子だった。彼女の両親――その3とその4だ――は共に、こんな古惚けた古本屋とは縁遠い職に就いて、豊かなんだか貧しいんだか判らない生活を忙しそうに送っている。この本屋の建て替えをその1に勧める位なんだから、金銭的には豊かなんだろうが……子供に会う時間も無いのはどうなんだ?
俺の――猫の親でもちょくちょく見回りがてら、顔見に来るぞ? 親ばかだが。
その1は首を傾げた儘、しかしその紙切れを捨てようとした。どうせその辺に有ったメモを栞代わりにしようとしたのだろうし、意味も無さそうだと判断したのだろう。
栞ならこの店ではその2――その1の連れ合いだ――の作った和紙のそれを、客の買い上げ時に挟む事になっている。これが季節の押し花が付いていたりでなかなか評判らしい。
と、その時――客が入って来た。
その中年男は殆ど店内を見回る事すらせず、その1が今まさに手にしていた本に向かって来た。その顔から笑顔が零れる。
「ああ! 良かった、未だ売れてなかったんだ!」男は言った。「あいつ、俺にくれる筈の本を売ったって言うから、慌てて……」
ちょっと黴臭くて、それでいながらパリッと乾燥していて……。ま、言ってしまえば古臭い訳だが、少なくとも嫌いじゃあ、ない。
尤も、俺にとっちゃあ、物心付いた頃から囲まれていた懐かしい匂いだから……っていうのもあるだろうがね。
未だたった二ヶ月だが――。
「にゃごろう、何うにゃうにゃ言ってんの?」同居人の一人がひょいっと俺の顔を覗き込んで言った。「ミルク欲しい?」
男がミルクなんぞ……みゃあ、俺はそう言ってねだった。
子猫にミルクは付き物だろう? 男だろうが女だろうが。
しかしどうせ意味は解らないとは言え、呟きを他の者に聞かれるとはな……。迂闊だったぜ。然も人間年齢にして五歳の子供に――キャリアは向こうの方が上か。
「まーた、うにゃうにゃ言ってる。はい、ミルク」言って、彼女は俺の愛用のミルク皿を目の前に置き、なみなみとミルクを満たした。うむ、満足。
俺は尻尾の先っちょで礼を言うと、ミルクに舌を伸ばした。生憎、ぐいっと呷る訳には行かないが。
言っとくが俺の名前は「にゃごろう」ではない。
「夜護郎」と書いて「やごろう」と読む。
同居人その1――この古本屋の主が付けた名だ。人間年齢で七十にもなろうかという老人で、立派に店の置物の役を担っている。偶に、客の相手もする様だが。
彼がそう名付けたのも無理はないかも知れない。
母方はスフィンクスという一風変わった血筋らしいが、父親の方は雑種。そんな二匹がどんな経緯で出会ったかは知らないが、俺は父親の血に混じっていた因子が出たんだろうな。自分が言うのもなんだが、見事な黒猫……に、額に白毛。それがちょっと欠けた月みたいだって、その1が言い張った。その5――あの女の子だ――はもっと可愛い名前がいいとごねたが……俺は「バナナ」だの「イチゴ」なんて名は御免だ。その1に感謝。
しかし、この日その1が若い男から買い取ったばかりの古本から見付け出したのは、おかしな物だった。何の事は無い只の紙切れだが……定規で引いた様な字で只一行。
『12-72-61-51-12-83』
「何の番号だろうね?」首を傾げるその1の様子を目敏く見付けたその5が、同じ様に小首を傾げながら言う。「ね? お祖父ちゃん」
その5はお祖父ちゃんっ子だった。彼女の両親――その3とその4だ――は共に、こんな古惚けた古本屋とは縁遠い職に就いて、豊かなんだか貧しいんだか判らない生活を忙しそうに送っている。この本屋の建て替えをその1に勧める位なんだから、金銭的には豊かなんだろうが……子供に会う時間も無いのはどうなんだ?
俺の――猫の親でもちょくちょく見回りがてら、顔見に来るぞ? 親ばかだが。
その1は首を傾げた儘、しかしその紙切れを捨てようとした。どうせその辺に有ったメモを栞代わりにしようとしたのだろうし、意味も無さそうだと判断したのだろう。
栞ならこの店ではその2――その1の連れ合いだ――の作った和紙のそれを、客の買い上げ時に挟む事になっている。これが季節の押し花が付いていたりでなかなか評判らしい。
と、その時――客が入って来た。
その中年男は殆ど店内を見回る事すらせず、その1が今まさに手にしていた本に向かって来た。その顔から笑顔が零れる。
「ああ! 良かった、未だ売れてなかったんだ!」男は言った。「あいつ、俺にくれる筈の本を売ったって言うから、慌てて……」
訊きもしないのにべらべら喋り出した男が言うには、彼はこの本を売って行った男の友人らしい。それでいずれ本を貰う約束をしていたのだが、相手の男がうっかりとこの店に売ってしまったと聞いて慌てて買い取りに来たらしい。
「勿論ちゃんと買いますよ。奴のうっかりとは言え、一旦売った物なんだから」男は言い、さりげなくその1が手にしていた紙切れに目を止めて、何気ない風を装って続ける。「ああ、それもその儘で結構ですよ。栞代わりにしますから」
栞なら差し上げますが――というその1の言葉に耳を貸す様子は無い。喋りたい事だけを言う、そんな感じだった。
その1はやれやれ、と紙切れを元の本に戻した。
男は終始笑顔の儘、本を買い取って店を出て行った。
「変な小父さんだったね……」その5が呟く。
その眼に好奇心が煌めいているのを、俺は見逃さなかった。
謎のメモ、どこか奇妙な男――五歳児の興味を引かない訳は無かった。
しかし――俺の本能が危険を告げていた。人間は訳の解らない生き物だが、その行動には基本的に何かしらの理由がある。目的がある。
あの男の目的は一体……?
と、俺が考えを巡らせている間に、その5の姿が小さくなっていた。
店から駆け出して行く。外はじき、誰そ彼時、逢魔が時。
ばか――俺は一人ごちて、慌てて後を追う。
「遠く迄行くんじゃないよ」などと暢気な事を言っているその1を残して。
小さな背中は大きな背中を追っていた。その背を更に追いながら、俺はやはりおかしい、と思う。中年男は何故未だこんな所に居るのだ?
その5の行動は素早かったが、所詮五歳児。大人の脚に追い付く筈が無い。
誘っている? ――俺は脚を速め、その5の前に出た。
「あれ、にゃごろう、付いて来ちゃったの?」彼女の脚が止まる。「駄目じゃない。迷子になっちゃうよ?」
こっちの台詞だ。
ともあれ、俺は彼女を帰宅させるべく、足にしがみ付いた。
「なーに? じゃれちゃって」その5が笑う。
違うと言うのに――そんな俺の抗議より先に男の声が掛かった。
「可愛い猫だね、お嬢ちゃん」
しまった。俺自身が話の種になってどうする――臍を噛む思いで見上げると、やはりあの中年男だった。態々戻って来た。それは詰まり、男の本当の目的は端からあの本や紙切れなどではなかったという事だ。本が気になっていたのならいつ迄もこんな所に居るものか。
あれは只の撒き餌。
この好奇心満載の子供を店からおびき出す為の。
目的は恐らく――誘拐。営利目的か、それとも……。
「お嬢ちゃん、とんぼ堂のお孫さんだよね?」男は古本屋を屋号で呼んだ。
決定。営利誘拐。大方その3とその4の財力に目を付けたか。
下調べをしてなきゃ、馴染みでもない店の屋号や家族なんか知るもんか。
俺は背中の毛を逆立てた。
しかしこっちは二ヶ月の子猫。哀しいかな力不足だ。
俺は素早く周囲を見回した。そして、内心舌打ちする。止めるのが遅かった様だ。古本屋のあった商店街を抜け、住宅街に入っている。人通りは無い。子猫や子供が騒いだ位で、その堅牢なドアを開いて迄、安全な自宅という箱から出て来る者が居るか……期待は出来ない。
俺の思い過ごしじゃないかって? ――なら何で男はその5の小さな手を取って、店とは反対方向に行こうとしているんだ?
薄ら笑いさえ浮かべて。
「あ、にゃごろうも……」と振り返るその5の手をぐいと引っ張りさえして。
俺は、敵わない迄もその脚に齧り付いた。
「いてっ! このクソ猫が……!」男は悪態をつきつつ、脚を振って俺を振り払おうとする。
地が出た様だな――如何に紳士を装っていても、こういう時にメッキが剥がれる。
しかし俺にそれを哂っている余裕は無かった。未だ未だ小さな牙も爪も、傷を負わすには及ばず、しがみ付いているのがやっとだ。
奴はその5の手を掴んだ儘――くそう、彼女が逃げ出す隙さえ作れないのかよ、俺は。
その5が流石に男の異変に気付いたか、声を上げるが、予想通り窓すら開きやしない。
と――あっ……と思う間も無く、俺の爪と牙が男から外れた。振り回される勢いが付いた儘、近くの壁に飛ばされる。拙い、近過ぎる。慌てて身を捻るが、前足を突いて衝撃を弱めるのがやっとだった。
彼女の悲鳴と、俺に向かって男の脚が振り上げられるのが、やけに間延びした時間の中に感じられた。
その間延びした時間の中で、事態は急変した。
横合いから飛び出した黒っぽい影が男の顔面に着地する。俺には未だ未だ出せない、どすの効いた声を立てながら。それは化け猫もかくやという――そう、猫の声だった。
「うわっ!!」先程とは比べ物にならない悲鳴を。男は上げた。その声がややくぐもっているのは、鼻を噛まれているからか。
ここが弱点なんだよ。解ったか――そんな視線がその猫から俺に浴びせられる。
あの親父め……俺は苦笑いした。ここは俺の親父、フィドルのシマだった様だ。
親父の爪と牙は容赦なく男の顔面に血を滲ませた。
男はその5の手も放し、本を振り上げて応戦しようとしたが、文字通りめくら滅法で親父には掠りもしない。
やがて流石に騒ぎを聞き付けたか、家々のドアが開いた。以前の同居人――親父達の今の同居人でもある――Zの姿もあった。もっと早く出て来やがれ。
「フィドル、何してるの!?」訳も知らずにZは言った。「放しなさい!」
親父は意外にもあっさりと、Zの手に引き取られた。
Zは平謝りしたが――人間世界では同居猫の責任は同居人の責任でもあるらしい。無論、同居猫は同居人の責任なんか取らないが――男は治療費を要求する事も無く、逃げる様に去ってしまった。
無論、逃げたのだが。
親父は既に素知らぬ顔で前足を舐めている。男の血で、少し赤く染まった前足を。
その目の前に、暴れた時に落ちたのだろう、例の紙切れ。
親父は一瞥して、ふん、と鼻を鳴らした。
俺がもの問いたげな視線を向けると、親父は言った――意味は無いよ、と。
Zに連れられて、その5と共にとんぼ堂に戻ってみると、ちょっとした騒ぎになっていた。本を売って行った若い男が「実は……」と、タレこみに来たのだ。
彼は中年男にちょっとしたバイトとして本をこのとんぼ堂に売って来るように言われた。売りに行く時間が無いから代わりに、と。だが、用を済ませた彼が向かいの喫茶店で一息ついていると、件の男がやって来るではないか。そして売ったばかりの本を買って行った。
「どう考えてもおかしいと思って……」彼は言った。
そして、間抜けにも中年男はバイト代の受け渡しの為の連絡先として、携帯電話のナンバーを正直に教えていたらしい。
男はあっさり、捕まった。逮捕当時、男の顔は凄まじいものだったと言う。
俺の軽い打撲の何倍以上にも。後に親父は十倍返しが基本だ、と教えてくれた。
「にゃごろうとにゃごぱぱが助けてくれたんだよね」夜、黒々とした俺の毛並みを撫でながら、その5は言った。どこか夢見る様な口調なのは、既に半分眠り掛けている所為か。五歳児は事件を聞いて電話を掛けてきた両親と、久し振りに遅く迄喋っていて疲れた様だ。
「おやすみ……」眠りに落ちる前のその呟きに、俺もそっと、みゃあ、と返した。
電話越しに聞こえたその4の声が耳に蘇る。
『みや、美夜、大丈夫なの!?』と。必死に縋る様なその声は、例え離れていても親なのだと、彼女を包み込む様に告げていた。
その所為なのか、久し振りに親父に会った所為なのか、俺もちょっと、お袋を思い出して、鳴いた。みゃあ。
その後――ちょっと早いけど、とその4がその5用に携帯電話を送って来た。護身用、らしい。子供用のシンプルな奴だ。
とは言え、五歳児と、共に七十代近い祖父母は慣れない器械に四苦八苦。繋がっただけで大喜びの有り様。
当分はその5――美夜は俺が面倒見てやらなきゃならない様だ。
何せ、夜護郎だからな。
それは兎も角、携帯電話を見て、俺はあっと、いや、みゃっと声を上げた。
『12-72-61-51-12-83』
親父が「意味は無いよ」と言った意味が解って。
―了―
「勿論ちゃんと買いますよ。奴のうっかりとは言え、一旦売った物なんだから」男は言い、さりげなくその1が手にしていた紙切れに目を止めて、何気ない風を装って続ける。「ああ、それもその儘で結構ですよ。栞代わりにしますから」
栞なら差し上げますが――というその1の言葉に耳を貸す様子は無い。喋りたい事だけを言う、そんな感じだった。
その1はやれやれ、と紙切れを元の本に戻した。
男は終始笑顔の儘、本を買い取って店を出て行った。
「変な小父さんだったね……」その5が呟く。
その眼に好奇心が煌めいているのを、俺は見逃さなかった。
謎のメモ、どこか奇妙な男――五歳児の興味を引かない訳は無かった。
しかし――俺の本能が危険を告げていた。人間は訳の解らない生き物だが、その行動には基本的に何かしらの理由がある。目的がある。
あの男の目的は一体……?
と、俺が考えを巡らせている間に、その5の姿が小さくなっていた。
店から駆け出して行く。外はじき、誰そ彼時、逢魔が時。
ばか――俺は一人ごちて、慌てて後を追う。
「遠く迄行くんじゃないよ」などと暢気な事を言っているその1を残して。
小さな背中は大きな背中を追っていた。その背を更に追いながら、俺はやはりおかしい、と思う。中年男は何故未だこんな所に居るのだ?
その5の行動は素早かったが、所詮五歳児。大人の脚に追い付く筈が無い。
誘っている? ――俺は脚を速め、その5の前に出た。
「あれ、にゃごろう、付いて来ちゃったの?」彼女の脚が止まる。「駄目じゃない。迷子になっちゃうよ?」
こっちの台詞だ。
ともあれ、俺は彼女を帰宅させるべく、足にしがみ付いた。
「なーに? じゃれちゃって」その5が笑う。
違うと言うのに――そんな俺の抗議より先に男の声が掛かった。
「可愛い猫だね、お嬢ちゃん」
しまった。俺自身が話の種になってどうする――臍を噛む思いで見上げると、やはりあの中年男だった。態々戻って来た。それは詰まり、男の本当の目的は端からあの本や紙切れなどではなかったという事だ。本が気になっていたのならいつ迄もこんな所に居るものか。
あれは只の撒き餌。
この好奇心満載の子供を店からおびき出す為の。
目的は恐らく――誘拐。営利目的か、それとも……。
「お嬢ちゃん、とんぼ堂のお孫さんだよね?」男は古本屋を屋号で呼んだ。
決定。営利誘拐。大方その3とその4の財力に目を付けたか。
下調べをしてなきゃ、馴染みでもない店の屋号や家族なんか知るもんか。
俺は背中の毛を逆立てた。
しかしこっちは二ヶ月の子猫。哀しいかな力不足だ。
俺は素早く周囲を見回した。そして、内心舌打ちする。止めるのが遅かった様だ。古本屋のあった商店街を抜け、住宅街に入っている。人通りは無い。子猫や子供が騒いだ位で、その堅牢なドアを開いて迄、安全な自宅という箱から出て来る者が居るか……期待は出来ない。
俺の思い過ごしじゃないかって? ――なら何で男はその5の小さな手を取って、店とは反対方向に行こうとしているんだ?
薄ら笑いさえ浮かべて。
「あ、にゃごろうも……」と振り返るその5の手をぐいと引っ張りさえして。
俺は、敵わない迄もその脚に齧り付いた。
「いてっ! このクソ猫が……!」男は悪態をつきつつ、脚を振って俺を振り払おうとする。
地が出た様だな――如何に紳士を装っていても、こういう時にメッキが剥がれる。
しかし俺にそれを哂っている余裕は無かった。未だ未だ小さな牙も爪も、傷を負わすには及ばず、しがみ付いているのがやっとだ。
奴はその5の手を掴んだ儘――くそう、彼女が逃げ出す隙さえ作れないのかよ、俺は。
その5が流石に男の異変に気付いたか、声を上げるが、予想通り窓すら開きやしない。
と――あっ……と思う間も無く、俺の爪と牙が男から外れた。振り回される勢いが付いた儘、近くの壁に飛ばされる。拙い、近過ぎる。慌てて身を捻るが、前足を突いて衝撃を弱めるのがやっとだった。
彼女の悲鳴と、俺に向かって男の脚が振り上げられるのが、やけに間延びした時間の中に感じられた。
その間延びした時間の中で、事態は急変した。
横合いから飛び出した黒っぽい影が男の顔面に着地する。俺には未だ未だ出せない、どすの効いた声を立てながら。それは化け猫もかくやという――そう、猫の声だった。
「うわっ!!」先程とは比べ物にならない悲鳴を。男は上げた。その声がややくぐもっているのは、鼻を噛まれているからか。
ここが弱点なんだよ。解ったか――そんな視線がその猫から俺に浴びせられる。
あの親父め……俺は苦笑いした。ここは俺の親父、フィドルのシマだった様だ。
親父の爪と牙は容赦なく男の顔面に血を滲ませた。
男はその5の手も放し、本を振り上げて応戦しようとしたが、文字通りめくら滅法で親父には掠りもしない。
やがて流石に騒ぎを聞き付けたか、家々のドアが開いた。以前の同居人――親父達の今の同居人でもある――Zの姿もあった。もっと早く出て来やがれ。
「フィドル、何してるの!?」訳も知らずにZは言った。「放しなさい!」
親父は意外にもあっさりと、Zの手に引き取られた。
Zは平謝りしたが――人間世界では同居猫の責任は同居人の責任でもあるらしい。無論、同居猫は同居人の責任なんか取らないが――男は治療費を要求する事も無く、逃げる様に去ってしまった。
無論、逃げたのだが。
親父は既に素知らぬ顔で前足を舐めている。男の血で、少し赤く染まった前足を。
その目の前に、暴れた時に落ちたのだろう、例の紙切れ。
親父は一瞥して、ふん、と鼻を鳴らした。
俺がもの問いたげな視線を向けると、親父は言った――意味は無いよ、と。
Zに連れられて、その5と共にとんぼ堂に戻ってみると、ちょっとした騒ぎになっていた。本を売って行った若い男が「実は……」と、タレこみに来たのだ。
彼は中年男にちょっとしたバイトとして本をこのとんぼ堂に売って来るように言われた。売りに行く時間が無いから代わりに、と。だが、用を済ませた彼が向かいの喫茶店で一息ついていると、件の男がやって来るではないか。そして売ったばかりの本を買って行った。
「どう考えてもおかしいと思って……」彼は言った。
そして、間抜けにも中年男はバイト代の受け渡しの為の連絡先として、携帯電話のナンバーを正直に教えていたらしい。
男はあっさり、捕まった。逮捕当時、男の顔は凄まじいものだったと言う。
俺の軽い打撲の何倍以上にも。後に親父は十倍返しが基本だ、と教えてくれた。
「にゃごろうとにゃごぱぱが助けてくれたんだよね」夜、黒々とした俺の毛並みを撫でながら、その5は言った。どこか夢見る様な口調なのは、既に半分眠り掛けている所為か。五歳児は事件を聞いて電話を掛けてきた両親と、久し振りに遅く迄喋っていて疲れた様だ。
「おやすみ……」眠りに落ちる前のその呟きに、俺もそっと、みゃあ、と返した。
電話越しに聞こえたその4の声が耳に蘇る。
『みや、美夜、大丈夫なの!?』と。必死に縋る様なその声は、例え離れていても親なのだと、彼女を包み込む様に告げていた。
その所為なのか、久し振りに親父に会った所為なのか、俺もちょっと、お袋を思い出して、鳴いた。みゃあ。
その後――ちょっと早いけど、とその4がその5用に携帯電話を送って来た。護身用、らしい。子供用のシンプルな奴だ。
とは言え、五歳児と、共に七十代近い祖父母は慣れない器械に四苦八苦。繋がっただけで大喜びの有り様。
当分はその5――美夜は俺が面倒見てやらなきゃならない様だ。
何せ、夜護郎だからな。
それは兎も角、携帯電話を見て、俺はあっと、いや、みゃっと声を上げた。
『12-72-61-51-12-83』
親父が「意味は無いよ」と言った意味が解って。
―了―
PR
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Re:無題
夜護郎は携帯電話で気付きました。という事で、携帯メールを打ってみましょう(^^)
『1のキーを2回、7を2回、6を1回……』という風に。
すると……答えはフィドルが言ってますね
『イミハナイヨ』
『1のキーを2回、7を2回、6を1回……』という風に。
すると……答えはフィドルが言ってますね
『イミハナイヨ』
Re:無題
いえいえ、難しく考えちゃったんですね(^^)
シンプルなもの程案外気付かない事ってありますよね。
シンプルなもの程案外気付かない事ってありますよね。
Re:無題
暗号、解ってみれば単純でしょ?(^^;)
ニャーゴ、元気ですかー?(笑)
ニャーゴ、元気ですかー?(笑)