『回想の部屋』

　今日夜霧――夜原霧枝先生――は前日にマンションを所有するオーナーに呼び出されたみたいで……始業式早々、いつも以上に、機嫌が悪かった。
　それでも時折仮名みぃちゃんの事に話が及ぶ度に愚痴が的外れになっていたのは、あの僅かな間を回想したからだろうか？
　去年の夏、小さな仔猫を保護したほんの短い期間を……。

「結局ばれたんですか？　仔猫――みぃちゃんを保護していたの、今頃になって」僕は兄貴と共に愚痴に付き合わされながら、首を傾げた。「もう半年も前の事じゃないですか」
「そうなのよ。それもほんの少しの間だったって言うのに、あのオーナー……」夜霧はぼやく。いけない、ぼやきスイッチを入れてしまった様だ。「普段はこっちに居ないもので、正月に戻って来たら以前の苦情が残されていたからって……もう猫は居ないってのに！」そう言った夜霧の横顔は、ちょっと寂しそうだった。
「苦情って、ご近所の人とトラブルでも？」
「一度だけね、出掛けに……ほら、マンションなんて締め切ってればそうそう音は洩れないんだけど、やっぱりドアを開けてるとね……隣のおばさんが猫の声を聞いたって。このマンションはペット禁止じゃないのかって噛み付いたらしいのよ。まぁ、オーナーの奥さんは大人しい人だし、一度だけ確認に来たけど、誤魔化したし」
　大人しい奥さんか……きっと夜霧には強く出られなかったんだろうな。気の毒に。僕と京はそっと、そんな視線を交わした。しかし、誤魔化していいのか、先生。
「けど、旦那の方はそうも行かなくてね……」夜霧は溜め息をついた。

「この壁の傷は？」白い壁の低い位置に付いた僅かな傷も、彼は見逃さなかったと言う。「何か……引っ掻いた様にも見えますが」
「あら、家具を移動した時にでも付いたんでしょうね」素知らぬ顔で、夜霧はそう切り替えしたそうだ。実際にはちょっと目を放した間に仔猫にやられたらしい。勿論、小さな仔猫の事、爪研ぎの真似事で付いた傷は極々僅かなものでしかなかったらしいけど。
「では……」オーナーは室内を見回し、痕跡を見付けようとしていた。その横では彼の奥方が女性の一人暮らしの部屋への不躾な訪問に渋い顔をしていたそうだけど。
　しかし、仔猫を預かったのは半年も以前の事。
　その間に使っていた猫缶だのトイレ砂だのは仔猫を引き渡す時に里親さんに上げてしまった。
　隣人が聞いた鳴き声と僅かな擦り傷――そんな状況証拠しか無い、そう思っていた夜霧だったんだけど……。
「これ、何ですか？」オーナーが手に取ったのは棚に置いていた小さなネズミ。羽で作られたそれは、只のマスコットの様にも見えたけど「猫がよく遊びそうな玩具ですね。実際、部屋の飾りにしては所々、ばらけてますね」

「取ってあったんですか？　玩具」思わず額を打つ。
「実際、よく遊んでたのよ。みぃちゃん」夜霧は溜め息をついた。「お気に入りでね。私が投げてあげると、疲れて寝ちゃう迄、じゃれ付いてた……」
　今度は回想スイッチが入ってしまった様だ。
「可愛かったですよね、ちっちゃい身体で跳ね回って……」と、回想に参加したのは、当時いつの間にか夜霧宅で猫と遊んでいたらしい京。抜け駆けだぞ？
「そうそう、未だ細い脚で時々よろけながらも追い掛けるのを止めなかったわね」
　完全に脱線している。
「それで、せめて思い出にと思って取ってあったんですか？」僕は話を戻した。「それは誤魔化し効かないんじゃあ……」
「まぁね」夜霧はばつが悪そうな顔で頷いた。「結局お小言食らったわよ。全く、この歳にもなって……」
　ぶつぶつ……夜霧はぼやく。
　それにしても何だか嫌みったらしいオーナーだ。丸で京みたいな物言いじゃないか。
「まぁ、短い期間だったし、部屋の傷もごく僅かだったし、偶々ドアが開いてた時に通り掛かった隣のおばさん以外からは苦情も来てないって事で、無罪放免になったけど」夜霧は肩を竦めた。
「それは良かったですね。マンション出てけ、なんて事にならなくて」
「その代わり、みぃちゃんの写真の焼き増し頼まれたわ」
　は？　それはもしかして……。
「オーナーさん……実は猫好き、ですか？」
「でも猫の毛アレルギーだから当分、あのマンション、ペット可にはならないわね」頷きつつも、夜霧は唸った。「半年も前の事を確かめに来たのも、本当は猫が見たかっただけみたい。ちょっと残念そうだったもの」
　つくづく……。
「京みたいなオーナーですね。何か素直じゃないし」
「私もそう思ったわ」
「どういう意味ですか！」自覚が無いらしい兄貴が、例によって眉間に皺を作って、喚いた。「俺はアレルギーありませんよ!?」
　そこじゃないだろう。兄貴よ――僕は頭を抱えるべきか、湧き上がる笑いに腹を抱えるべきか、迷った。
　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―了―

---

　またもや過去話を繋げてみる（＾＾；）
　京は多分、自覚全く無いです（笑）