『本当ですか？』

　夜霧――夜原霧枝先生――は先日、周囲の人間に告知したらしい。
　自分が教師を辞めるかも知れない、と。

「何でだろうね？　時期的にも中途半端だし……」噂を種に、昼休みの歓談。「真逆、結婚とか？」
　本当に真逆、だ。あの気分屋の夜霧に付き合える男性が果たして居るのだろうか？
　そう思っていたのは僕だけではない様で、我が双子の兄、京と同級生の知多勇輝が同時に頭を振る。無い無い、と。そこ迄否定するのも、ちょっと気の毒な気がしないでもないけれど……。
「女性が辞職するイコール結婚、というのは安直過ぎるぞ、祥」眉間に皺寄せて、京が言った。「田舎の両親の面倒を見る為とか、自分がやりたい仕事が別に見付かったとか、色々あるだろう。今は一介の美術教師でも、実は画家を目指しててそれに集中したい、とか……」
　今一つ年齢不肖な夜霧だけど、この学校には結構長く居るらしいから、まぁ、それなりの歳なんだろう。正面切って訊く勇気は、生憎と僕には無い。けど、歳を取ってからプロの画家になる人だって居る。少なくとも、なりたいと思うのは何歳だって可能だ。
「大体、辞めるかも知れないっていうのも、噂だろう？」と、勇輝。「夜霧の事だから、癇癪でも起こしてたんじゃないか？　それを誰かが大袈裟に話したとか、そんな所じゃないのか？」
　その可能性も否定出来ない。何せ噂には尾鰭が付くものだ。
　取り敢えず、朝のホームルームで見た、夜霧の様子には何ら変わった所は無かったし。尤も、気紛れな夜霧の事、変わってない様に見えるだけかも知れないけれど。
　出る筈もない結論に辿り着く前に、午後の授業を知らせる予鈴が鳴った。

　ところが翌日には、実は夜霧には子供が居るのだ、などという尾鰭が付いていた。然もそれが公に出来ない類の出生だなんていう、不謹慎な噂迄飛び交う始末。
「噂にしても……どこか悪意を感じないか？」僕は京に言った。「子供が居る、迄はまぁ、いいとしても、公に出来ないんなら、どうして噂になってるんだろ？」
「噂なんて所詮はいい加減なものだが……。確かに恣意的なものを感じるな」京は頷き――席を立った。
　真逆、正面から訊きに行く気か!?　噂の真偽を確かめに？
　僕にはとても出来ないが、京なら……やりそうで、我が兄ながら恐ろしい。
　そして実際、京はそれを実行してしまった。止められなかった――あるいは止めなかった――僕は卑怯者だろうか。あの夜霧にこんな話を持って行ったら、真偽の程は兎も角、激昂するに決まっている。
　もしも事実だったとしたら、夜霧は噂の発生源を許さないだろうし、只の尾鰭だったとしても、笑い飛ばしてくれるほど、寛大ではない。
　そう思っていたのだけれど、戻って来た京は意外にも涼しい顔だった。

「やっぱり只の噂だそうだ」馬鹿馬鹿しい、という顔で京は言った。「夜霧には子供も居ないし、公に出来ない様な相手も居ない。何より、辞職するなんて、一言も言ってないそうだ」
「じゃあ、何でこんな噂が……？」僕は首を傾げた。「まぁ、噂なんて確かにいい加減なものだけど」
「どうやら発生源もはっきりしているらしい」
「えっ、そうなのか？」僕は目を丸くした。しかし、なるほど、解っていたからこそ、京の突撃質問にもそれ程激怒される事もなかったのだろう。
「悪意がある筈だ。そいつは先日、夜霧に素行を注意されて、逆恨みしたらしい。何でもこの学園には高等部から入ったそうで、それ迄は家で躾も出来ない親に甘やかされて来たらしい。そこへ来てあの夜霧の怒り様に驚いたり、悔しかったり……で、下らない噂を流して、夜霧が此処に居られない様にしようと……」
「それって……」
「ああ」
『幼稚過ぎるな』思わず双子ならではのハーモニーさえ奏でそうな程、僕達は声を揃えて慨嘆した。
　表情も鏡に映した様にそっくりだったと、後に勇輝が証言してくれた。眉間の皺は似たくないんだけどなぁ。

　ともあれ、既に発生源もネタも割れた噂、先生方は取り立てて騒ぎにする事無く、自然消滅を待つ気らしかった。例え事実に反していると証明されても、否定されればされる程ぽこぽこ湧き出てくるのが、この手の噂だ。寧ろ、夜霧が此処に勤め続けていれば、それだけで充分、噂の否定にはなるのだ。
　まぁ、夜霧に関してはこれ迄も、実は疾うに定年過ぎているだの、あの色白さを保つ為に外出時はすっかり怪しい格好をしているだの、寧ろ都市伝説じゃないのかって位、変な噂が流布していたから……寧ろ消えるのは早い方かも知れない。

　因みに件の幼過ぎる精神構造の持ち主は下級生の男子だったので――男子寮の纏め役たる京の、嫌みったらしさ一杯の説教が数時間に亘って続けられた。
　今の所、京に関してのおかしな噂は観測されていない。流石に、そんな事をすればどうなるか位は、その数時間で理解出来た様だった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―了―

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　ううむ（－－；）
　『幼稚過ぎるな！』