『赤い人形』

　寒い一日だった。
　街灯の暖色の明かりも、霧雨に煙って却って街の風景を滲ませるばかり。路面の水溜まりが更にそれを反射して、眼を惑わせる。
　こんな日に、どうして自分は街角に立っているんだろう？――赤い傘を差し、赤いワンピースの上にロングコートを巻き付け、赤いハイヒールから忍び上がる冷たさに耐えながら。
　大体、こんな服装、私の趣味ではなかった筈なのだけど。
　記憶が無いのだからはっきりとは、言えない。
　いつからの記憶が無いのかさえ、判然としない。只、気が付いたらこの格好で、此処に立っていた。そして、どうしていいのか、解らないでいる。
　でも、本当に記憶を失くしたと言うよりは、ちょっとした混乱を来たしているだけ、そんな感じだ。切っ掛けさえあれば、私は私を思い出すだろう。
　そう、いつもの様に。
　そして、切っ掛けがやって来た。

「志穂！　やっと見付けた！」傍らに停車した車の助手席から、何処かで見た覚えのある女性が声を掛けてきた。「またそんな格好して……。早く乗って！　こんな所に突っ立ってたら、風邪ひいちゃうよ！」
　ああ、そうだ、彼女は私の友達で――運転席には二人の共通の友達も居る。
　私は促される儘に、後部座席に乗り込んだ。冷え切って、唇をわななかせている私の為に、運転席の彼が暖房の温度を上げてくれた。その温風に溶かされる様に、私の記憶がゆっくり、戻って来る。
　木野崎志穂。二十歳の大学生。助手席の彼女とはルームシェア仲間として同居している。彼女の名前は……小島映子。やはり大学生だ。二人でバイトしながらの同居はなかなか楽しいものだった。
　なのに、私があれを見付けてしまってからかしら？　
　引っ越して行った隣の人が捨てて行ったお人形。元からなのかどうか、現代風の大人っぽい装いを施された、ビスク・ドール。
　それは傷みも無く、美しく――勿体無い、私はそう思って、手に取ってしまった。
　そしてそれ以来、私はその人形と同じ赤の服飾品を、好んで身に着けるようになったのだった。
　今では丸でその人形を、その儘大きくしたかの様な姿で、時折、自分を失くして街に立っている事がある。何をするでもなく。

　マンション迄送ってくれた彼は、その儘帰って行った。徐々に発作の期間が長くなっていく私が気味悪かったのかも知れない。
　私はシャワーで身体を温め、いつもの普段着に着替える。厚手のトレーナーと擦り切れたジーンズ。落ち着く。
「全く、こんな格好で立ってて、変な人に連れて行かれちゃったらどうするのよ？」赤い衣装一式を、それでも洗濯機に放り込みながら、映子は言った。「どうしちゃったの？　一体」
　解らない――と私は頭を振った。実際、何でこんな事になったのか……。
「志穂。この際はっきりさせといた方がいいんじゃない？　やっぱり、おかしいのはあの人形じゃないのかなぁ」心配げに眉を顰めながら、映子は言う。「本当に何かあってからじゃ困るのは、志穂だよ？」
「うん……」低いサイドテーブルの上に飾った、件の人形を見詰めて、私は頷いた。
「それとも何？　普段はそんな色気も素っ気も無い格好してるけど、実はお人形さんみたいに着飾りたい願望でもある？」余りに私が深刻な顔をしていたのだろうか、軽く茶化す様に、映子は笑った。因みに色気も素っ気も無いのは彼女も同じだ。
「そんな訳無いじゃない」と私は苦笑した。ヒールのお陰で、足が痛かった。

　翌日、マンションのオーナーから聞き出した元隣人の電話番号に、私は電話を入れていた。横で映子が、どんな人だったっけ？　と呟いている。でも私だって、三十代位の女性だった事しか、覚えていない。都会のマンション生活者なんてそんなものだ。当然生活様式も解らないけれど、一応夕方の時間帯を選んだ。
　やはり三十代と思しき彼女は、幸い仕事から帰宅した所だったらしく、話に応じてくれた。
『あの人形、拾ったの……？』訳を聞いて、そう呟いた切り、彼女は絶句した。
「あの……あたし達、貴女の残して行った人形の所為だとは思ってはいないんですけど……」映子が彼女を責める気は無いというポーズで嘯く。「勝手に拾っちゃったのはあたし達の方だし。只、やっぱり何かおかしいなって……」
『あの子はね』暫しあって、彼女が言った。『私の彼氏が贈ってくれた物だったの。最初は、私に似ているからって……』懐かしむ様な、僅かに甘い声は――その後直ぐに硬く凍った。『でも、いつからか、彼は言う様になったわ。あの人形の様にいつも美しくしていろ、って』
「…………」私達は顔を見合わせた。
『どうしていつも笑っていられないんだ、どうしていつも綺麗でいられないんだ、どうしていつも……黙っていられないんだ……って……』啜り泣きが、受話器を通して聞こえた。
　同じ女として、私達は憤りを感じずにはいられなかった。
　それは好きな人の為だもの。笑っていたい、綺麗でいたい……でも、私達は生きている。笑えない時もあれば、体調の所為かお化粧の乗りの悪い時だって、綺麗だけど窮屈なドレスよりも、楽な格好をしていたい時だってある。
　何より、黙ってなんていられないじゃない！
　私達はお人形じゃないんだもの。
『だから、私は彼とも別れて、人形も捨てて……』
「ごめんなさい」私は見えもしない電話の向こうに、頭を下げた。「辛い事を思い出させてしまって……本当に、ごめんなさい」
　その後、私達が彼女を慰める様な形になり、話は終わった。

「これって詰まり……」人形をリビング中央の炬燵に持ってきて、映子は唸った。「この人形が――もしくはこの人形に残った彼氏の執念が、彼女の代わりに志穂に、この人形の様な……只の美しさを求めているって事なのかしら？」
　只の美しさ。着飾るだけ。話しもせず、温かみも無い、只のお人形の美しさ。
　そんなものを求められても、私はそもそも彼女ではないし……そんなものにはなれない。なりたくない。
「どうする？」映子は人形を炬燵の天板に置いて言った。「これがあると、志穂はまた着飾って、ショーウインドーの人形よろしく街角に立つ事になる……かも知れない」
　答えは決まっている。私が人間である以上。そして人間でありたい以上。
「只捨てて、誰かが手にしても気の毒だわ。人形寺ってあるわよね。曰く付きの人形でも供養してくれる所」
「解ったわ。明日、浩次にに車出して貰おう」言って、映子は昨日の彼に電話を掛けた。

　だが、翌朝確かに浩次が車のトランクに乗せた筈の人形は、寺に着いた三人がトランクを開けた時、姿を消していた。
「途中で落ちた？　真逆、そんな事……」ある訳無い、と頭を振る映子。
「もしかしたら、途中のドライブインで休憩した時に……うっかり鍵を掛け忘れていたのかも知れない」浩次は頭を掻いた。「締めた心算だったんだけどなぁ」
「車上狙い？　でも、人形だけ盗って行くなんて……」私は想像したくはなかったが、どうしても、あの人形に薄気味悪さを感じないではいられない。
　人の意識を奪い、自分の様にさせてしまう人形。それならば、もしかして自らの危機を察知して……？
　寒々しい思いを抱きながらも、私達は気は心とばかりにお祓いだけを受けて、寺を去った。
　帰宅して、もしかしたらという思いを打ち消す様に勢いよく開けた部屋には、人形の影も形も無かった。私と映子はほっと、肩の力を抜く。
「何だったのかしらね？　兎に角、有難うね、浩次」もう薄暗くなった駐車場を見下ろして言った私の目に、浩次が手を振るのが見えた。
　もう一方の手に、何かを持っている様だったけれど、あれは……真逆ね？
　兎も角、私はそれ以降、赤い服には全く興味を示さなくなった。勿論、映子も。

　只、その後、気になる噂を耳にした。浩次が、赤い服を着た女性と付き合っているらしい、と。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―了―

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　こんな男は嫌だシリーズ（勝手に作るな）
　こんな人形も嫌だ（－－；）