〈2007年9月16日開設〉
これ迄の小説等、纏めてみたいかと思います。主にミステリー系です。
尚、文責・著作権は、巽にあります。無断転載等はお断り致します(する程のものも無いですが)。
絵師様が描いて下さった絵に関しましても、著作権はそれぞれの絵師様に帰属します。無断転載は禁止です。
Admin
Link
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ちょうちょが居る、と幼い真紀は言った。
客間に布団を並べて敷いて、居間の方から聞こえる父達の声に耳を塞いで、そろそろ寝ようとしていた矢先の事だった。保育園児の真紀には兎も角、今年中学に上がった時子には早い時間だったが、親戚宅にはテレビは居間にしかなく、大人達の中に入ってチャンネル権を主張するのは躊躇われた。
仕方なく、お姉ちゃんの役割を果たす事にしたのだ。
「こんな夜中に? 蛾じゃないの?」だったら嫌だなと思いながらも、時子は従妹が指差す方を見遣る。「何処に? 居ないじゃない」
小さな手が指し示すのはこの部屋と廊下を隔てる襖。白地で、時子の膝の辺りから下だけが青灰色の、ごくシンプルなものだ。蝶と見紛う様な模様も汚れも無い。
しかし真紀は居ると言い張って、薄い夏蒲団を跳ね飛ばして襖へと駆け寄る。そうして「此処!」と指差す場所を見ても、時子の目には只の白い襖しかありはしなかった。
「んー、おかしいなぁ」時子も傍迄立って行き、目を眇めつつ覗き込む。真紀の目を。「ゴミが入ってる様子もないし。真紀ちゃん、どんな蝶が居るの?」
「えっとね、大きなちょうちょ。真っ黒なの」真紀は両手で十五センチ程の大きさを示した。「この位の。図鑑で見たアゲハチョウっていうのに、形が似てる」
「真っ黒なアゲハチョウねぇ」そんな種類も居るのかも知れないが――時子は再び襖に目を転じる――少なくとも、今此処には居ない。「逃げないの? 私達がこんなに近付いてるのに」
「同じ所に留まって、羽だけちょっと動かしてるよ」見えないと言う時子を不思議そうに見上げ、真紀は答えた。「でもね、何だか……薄くなってきた」
「薄くなった?」時子は目を瞬かせる。
「うん。何かね、色が薄くて……時々襖が透けて見えるの」それは丁度白と青灰色の境目に居るらしく、その模様が羽を透かして見えるのだと言う。
「真紀ちゃん、お姉ちゃんをからかってる? そんな蝶が居る訳ないじゃない」流石に訝しんで、時子は質した。「それとも、もう寝惚けちゃったのかなぁ?」冗談めかしてそう付け加えたのは、幼い従妹に対して口調がきつくなってしまったかと危惧した所為か。
しかし真紀は勢いよく頭を振って、からかってもいないし寝惚けてもいないと、口を尖らせた。
そんな事を襖近くで話していた所為だろう。様子を見に来たらしい祖母の声が襖の向こうから聞こえた。
「時ちゃん、真紀ちゃん、どうかしたのかい?」
幼い従妹がどうかしてしまったのではないかと考え始めていた時子は、その声にほっとし――その一瞬の後に凍り付いた。
今日はその祖母の葬儀の為に、本家であるこの家に集まり、泊まる事になった筈なのに!
横で笑顔で答え掛けた真紀も同じ事に気付いたのか、顔を強張らせている。
「どうかしたのかい?」祖母の声は生前と全く変わりなく、あくまで優しい。
答えなければ――時子は思った。答えなければ祖母はこの襖を開けて入って来る。そんな気がした。と同時に、これがほんの少し前だったら歓迎すべき事だったのに、と悲しくなる。祖母が死者だから、この部屋への侵入を恐れてしまう――それは、祖母の死を自分が受け入れてしまった事を意味していた。大好きなお祖母ちゃんだったのに……。
「あ、あのね、お祖母ちゃん……。虫が、居るの」渇いた舌をどうにか動かして、時子は答えた。「真っ黒な蝶が居るって……真紀ちゃんが……」
「夜中に蝶? それはよくないねぇ」どこか困った様な口調の祖母。「私に寄って来てしまったのかねぇ」
ああ、きっと今頃生前と同じ様に、左手を頬に当てているのだろう。そんな姿さえ、容易に目に浮かぶというのに。時子は昼間、棺の中の祖母の顔を見た時の涙が蘇ってくるのを感じた。
「解ったよ。それは私が連れて行く」二人を安堵させる様に、祖母の声は笑みを含んでいた。
そしてポン、と一つ、手を打つ音が聞こえ――それ以来、声は聞こえなくなった。
同時に件の蝶も姿を消したと真紀は言い、目を白黒させていた。
あれは祖母が言う様に、何かよくないものだったのだろうか。
祖母に――死者に寄って来る、黒い蝶。それは彼岸からの迎えだったのか、それとも死者の魂にたかるものだったのか。
連れて行ってくれた祖母にちゃんとした別れが言えなかった事をちょっと悔やみながらも、時子は真紀を抱き締めた。
―了―
やっぱりねーむーいー☆
客間に布団を並べて敷いて、居間の方から聞こえる父達の声に耳を塞いで、そろそろ寝ようとしていた矢先の事だった。保育園児の真紀には兎も角、今年中学に上がった時子には早い時間だったが、親戚宅にはテレビは居間にしかなく、大人達の中に入ってチャンネル権を主張するのは躊躇われた。
仕方なく、お姉ちゃんの役割を果たす事にしたのだ。
「こんな夜中に? 蛾じゃないの?」だったら嫌だなと思いながらも、時子は従妹が指差す方を見遣る。「何処に? 居ないじゃない」
小さな手が指し示すのはこの部屋と廊下を隔てる襖。白地で、時子の膝の辺りから下だけが青灰色の、ごくシンプルなものだ。蝶と見紛う様な模様も汚れも無い。
しかし真紀は居ると言い張って、薄い夏蒲団を跳ね飛ばして襖へと駆け寄る。そうして「此処!」と指差す場所を見ても、時子の目には只の白い襖しかありはしなかった。
「んー、おかしいなぁ」時子も傍迄立って行き、目を眇めつつ覗き込む。真紀の目を。「ゴミが入ってる様子もないし。真紀ちゃん、どんな蝶が居るの?」
「えっとね、大きなちょうちょ。真っ黒なの」真紀は両手で十五センチ程の大きさを示した。「この位の。図鑑で見たアゲハチョウっていうのに、形が似てる」
「真っ黒なアゲハチョウねぇ」そんな種類も居るのかも知れないが――時子は再び襖に目を転じる――少なくとも、今此処には居ない。「逃げないの? 私達がこんなに近付いてるのに」
「同じ所に留まって、羽だけちょっと動かしてるよ」見えないと言う時子を不思議そうに見上げ、真紀は答えた。「でもね、何だか……薄くなってきた」
「薄くなった?」時子は目を瞬かせる。
「うん。何かね、色が薄くて……時々襖が透けて見えるの」それは丁度白と青灰色の境目に居るらしく、その模様が羽を透かして見えるのだと言う。
「真紀ちゃん、お姉ちゃんをからかってる? そんな蝶が居る訳ないじゃない」流石に訝しんで、時子は質した。「それとも、もう寝惚けちゃったのかなぁ?」冗談めかしてそう付け加えたのは、幼い従妹に対して口調がきつくなってしまったかと危惧した所為か。
しかし真紀は勢いよく頭を振って、からかってもいないし寝惚けてもいないと、口を尖らせた。
そんな事を襖近くで話していた所為だろう。様子を見に来たらしい祖母の声が襖の向こうから聞こえた。
「時ちゃん、真紀ちゃん、どうかしたのかい?」
幼い従妹がどうかしてしまったのではないかと考え始めていた時子は、その声にほっとし――その一瞬の後に凍り付いた。
今日はその祖母の葬儀の為に、本家であるこの家に集まり、泊まる事になった筈なのに!
横で笑顔で答え掛けた真紀も同じ事に気付いたのか、顔を強張らせている。
「どうかしたのかい?」祖母の声は生前と全く変わりなく、あくまで優しい。
答えなければ――時子は思った。答えなければ祖母はこの襖を開けて入って来る。そんな気がした。と同時に、これがほんの少し前だったら歓迎すべき事だったのに、と悲しくなる。祖母が死者だから、この部屋への侵入を恐れてしまう――それは、祖母の死を自分が受け入れてしまった事を意味していた。大好きなお祖母ちゃんだったのに……。
「あ、あのね、お祖母ちゃん……。虫が、居るの」渇いた舌をどうにか動かして、時子は答えた。「真っ黒な蝶が居るって……真紀ちゃんが……」
「夜中に蝶? それはよくないねぇ」どこか困った様な口調の祖母。「私に寄って来てしまったのかねぇ」
ああ、きっと今頃生前と同じ様に、左手を頬に当てているのだろう。そんな姿さえ、容易に目に浮かぶというのに。時子は昼間、棺の中の祖母の顔を見た時の涙が蘇ってくるのを感じた。
「解ったよ。それは私が連れて行く」二人を安堵させる様に、祖母の声は笑みを含んでいた。
そしてポン、と一つ、手を打つ音が聞こえ――それ以来、声は聞こえなくなった。
同時に件の蝶も姿を消したと真紀は言い、目を白黒させていた。
あれは祖母が言う様に、何かよくないものだったのだろうか。
祖母に――死者に寄って来る、黒い蝶。それは彼岸からの迎えだったのか、それとも死者の魂にたかるものだったのか。
連れて行ってくれた祖母にちゃんとした別れが言えなかった事をちょっと悔やみながらも、時子は真紀を抱き締めた。
―了―
やっぱりねーむーいー☆
PR
昨日、これを摩り替える事で白黒を逆転したかった。
私は掌の上の指輪を見詰めた。飾り気のない、至極シンプルな銀の指輪。特徴と言えば、内側に誕生石がそっと埋め込まれている事と、イニシャルが彫ってある事位だろうか。態々見えない所に石を填めたこの指輪、飾りと言うよりお守りとして、二十歳の誕生日の深夜、両親が贈ってくれた物だ。
私達、双子の姉妹に。
瓜二つという言葉がまさに当て嵌まる、そっくりな顔、体型。髪の長さは私が肩先迄、妹がやや長い。けれど、髪型次第では誤魔化せる程度の差だ。服の趣味もどこか似ていて、互いに貸し借りする事もある。
そんな二人だから、遠目に見た他人が見分ける事は、ほぼ困難だ。
だからこのイニシャル付きの指輪さえ摩り替えてしまえば、私を妹と、妹を私と、誤認させる事が出来ると思ったのだ。
例え昨日、あの現場から立ち去る姿を、偶々通り掛かった数人の小学生に見られていたとしても。忘れた指輪が発見される前に、見付けて摩り替えてしまいさえすれば……。
回収するだけにせず、摩り替えようと思ったのは、やはりあの事が私の心に影を落としていたのだろう。
私は掌の上の指輪を見詰めた。飾り気のない、至極シンプルな銀の指輪。特徴と言えば、内側に誕生石がそっと埋め込まれている事と、イニシャルが彫ってある事位だろうか。態々見えない所に石を填めたこの指輪、飾りと言うよりお守りとして、二十歳の誕生日の深夜、両親が贈ってくれた物だ。
私達、双子の姉妹に。
瓜二つという言葉がまさに当て嵌まる、そっくりな顔、体型。髪の長さは私が肩先迄、妹がやや長い。けれど、髪型次第では誤魔化せる程度の差だ。服の趣味もどこか似ていて、互いに貸し借りする事もある。
そんな二人だから、遠目に見た他人が見分ける事は、ほぼ困難だ。
だからこのイニシャル付きの指輪さえ摩り替えてしまえば、私を妹と、妹を私と、誤認させる事が出来ると思ったのだ。
例え昨日、あの現場から立ち去る姿を、偶々通り掛かった数人の小学生に見られていたとしても。忘れた指輪が発見される前に、見付けて摩り替えてしまいさえすれば……。
回収するだけにせず、摩り替えようと思ったのは、やはりあの事が私の心に影を落としていたのだろう。
近付いてはいけない所。
溜め池、雨で増水した川、神社の裏山……やまの屋敷。
夏休みを前にして浮かれる僕達に、大人達は事ある毎に、それを口にした。去年も聞いたから解ってるって言うのに。
やまの屋敷――山の中腹にあるから「山の屋敷」なんだとか、今はもう読み取れないけれど元々は山野という表札が掛かっていたから「山野屋敷」なんだとか、名前の由来は色々聞いている。
そしてそこで昔何があったのかも、大量の憶測も入り混じって、色々聞いている。
男が奥さんを殺して自分も自殺したのだとか、夫婦共に流れ者に惨殺されたのだとか、突然何の痕跡も残さず、居なくなったのだとか……。詳しく聞こうとしても、昔の事で、当時生きていたのはお祖父ちゃん達の年代だ。お祖父ちゃんはそんな事を子供が知らなくてもいい、と取り合ってくれない。だから、お父さんお母さんもはぐらかすばかりだ。
でも、隠すから余計に知りたくなるんだよね。
溜め池、雨で増水した川、神社の裏山……やまの屋敷。
夏休みを前にして浮かれる僕達に、大人達は事ある毎に、それを口にした。去年も聞いたから解ってるって言うのに。
やまの屋敷――山の中腹にあるから「山の屋敷」なんだとか、今はもう読み取れないけれど元々は山野という表札が掛かっていたから「山野屋敷」なんだとか、名前の由来は色々聞いている。
そしてそこで昔何があったのかも、大量の憶測も入り混じって、色々聞いている。
男が奥さんを殺して自分も自殺したのだとか、夫婦共に流れ者に惨殺されたのだとか、突然何の痕跡も残さず、居なくなったのだとか……。詳しく聞こうとしても、昔の事で、当時生きていたのはお祖父ちゃん達の年代だ。お祖父ちゃんはそんな事を子供が知らなくてもいい、と取り合ってくれない。だから、お父さんお母さんもはぐらかすばかりだ。
でも、隠すから余計に知りたくなるんだよね。
今日は、この屋敷の東南の塔と物陰や塀沿いに設置した防犯カメラのデータも用意する心算だったのだろうか?
でも、東南の塔の番人と、正門の見張り番も、佐倉氏から相談を受けたものの、それについては約束しなかったよ、と頭を振った。
「どうしてですか?」大袈裟な身振りも交えて、憤った様に佐倉氏は彼等に詰め寄った。「この屋敷への侵入者の存在を確認し、その正体を明白にする為にも、それらのデータが必要だと、お願い申し上げたでしょう?」
確かに確約は頂けませんでしたが、と些か恨みがましく付け加える。
彼が言うのも尤もだろう。
ここ数週間、この屋敷では謎の侵入者の痕跡が幾つも発見されている。
家人の誰もが触らないと言うのに小物が移動していたり、誰も外出していないと言う雨の日に、廊下に湿った泥が残されていたり。
極め付きは屋敷の主のコレクションが収められた東南の塔。屋敷とは二階部分の渡り廊下一本で繋がれ、更に入って直ぐの部屋には番人が常駐していると言うのに、その彼に気付かれずに侵入し、品物の幾つかの場所を摩り替えて行った者が居ると言うのだ。彼でさえコレクション室には滅多に入らないと言うのに。
但し、何れの場合も、どれ程調べても盗難の痕跡はなかった。場所が変わってはいても、品物は全てその場にあり、傷付けられてもいない。それだけに侵入者の意図が解らず、家人揃って首を傾げていた。実質的被害は無いに等しい為に警察に届けるのも躊躇われ、主は結局、探偵社の者を呼び付けた。
それが佐倉氏だったが――彼の捜査は前途多難そうだ。
でも、東南の塔の番人と、正門の見張り番も、佐倉氏から相談を受けたものの、それについては約束しなかったよ、と頭を振った。
「どうしてですか?」大袈裟な身振りも交えて、憤った様に佐倉氏は彼等に詰め寄った。「この屋敷への侵入者の存在を確認し、その正体を明白にする為にも、それらのデータが必要だと、お願い申し上げたでしょう?」
確かに確約は頂けませんでしたが、と些か恨みがましく付け加える。
彼が言うのも尤もだろう。
ここ数週間、この屋敷では謎の侵入者の痕跡が幾つも発見されている。
家人の誰もが触らないと言うのに小物が移動していたり、誰も外出していないと言う雨の日に、廊下に湿った泥が残されていたり。
極め付きは屋敷の主のコレクションが収められた東南の塔。屋敷とは二階部分の渡り廊下一本で繋がれ、更に入って直ぐの部屋には番人が常駐していると言うのに、その彼に気付かれずに侵入し、品物の幾つかの場所を摩り替えて行った者が居ると言うのだ。彼でさえコレクション室には滅多に入らないと言うのに。
但し、何れの場合も、どれ程調べても盗難の痕跡はなかった。場所が変わってはいても、品物は全てその場にあり、傷付けられてもいない。それだけに侵入者の意図が解らず、家人揃って首を傾げていた。実質的被害は無いに等しい為に警察に届けるのも躊躇われ、主は結局、探偵社の者を呼び付けた。
それが佐倉氏だったが――彼の捜査は前途多難そうだ。
重く雲の垂れ込めた空模様の怪しさに、僕はふと目に付いたコンビニに立ち寄った。雨宿りをするか、ビニール傘でも買うか――そんな気軽な心算だった。
どこか薄暗い店内には商品陳列をしているおじさんが一人。近所には高校や会社もあるが、昼休みには遅く、帰宅時間には早い、そんな午後の中途半端な時間だからだろうか、客の姿は無い。なるほど、こんな時間帯だから店内は一人で大丈夫なのだろう。おじさんは僕に気付くと愛想のいい声で「いらっしゃいませぇ」と言った。
しかし、一対一というのは何故、こうも緊張感を生むのだろうか。
勿論疚しく思う事もないのに、何故か見られている様で落ち着かない。雑誌でも冷やかしながら雨宿り、という選択肢は既に僕の中で消え掛かっていた。
外は未だ降り出してはいない。だが、見た限りではいつ大粒の雨が路面を染めても不思議ではない暗さだ。
傘を買ってさっさと出るか――そう思って入り口近くの売り場を探すが、あのありふれたビニール傘の姿が無い。売り切れ?
僕は陳列を続けながらもずっとこちらの気配を窺っているおじさんに、声を掛けた。傘はありませんか?
「か、傘ですか?」何故か思いも掛けない言葉を聞いた様に、おじさんはどもった。
梅雨時でこの天候なのだ。コンビニとしても売り時ではないのか?
「傘はその……申し訳ありません。置いておりません」おじさんは腰を折る。
「ええ? 弱ったなぁ。普通置いてるでしょ、コンビニなんだから」今にも雨滴の落ちそうな空とおじさんを見比べて、僕は言った。本当に弱った。これなら此処に寄らずに帰宅を急いだ方がよかったかも知れない。
「大変申し訳ありません」おじさんのお辞儀の角度が更に深くなる。
それを見ていると流石にこちらも強くは言えない。小さい店だ。コンビニとは言え、こういう所もあるのだろう。仕方ない。急いで帰ろう。
しかし、おじさんは恐縮と言うよりも萎縮した様子で、未だ頭を垂れている。この儘帰るのも何だか、後味が悪い。別に要る物も無いが……ああ、そう言えば母さんに剃刀を頼まれていた。序でがあったらでいいから、と。
探す時間も惜しかったし、気まずさを誤魔化す心算もあって、僕はおじさんに訊いた。剃刀はどこですか?
「か……剃刀、ですか?」何故か先程よりもつっかえつっかえ、おじさんは言う。「も、申し訳ありません。置いておりません」
「ええ?」流石に眉間に皺が寄る。どんな小さな店でも置いてるだろう。普通。
「も、申し訳ありません!」おじさんは慌ててまた腰を折る。見れば肩が細かく震えている。おいおい、僕はそんなに怖い顔をしているか?
仕方ない。そうこうしている間にも雲は密度を増して行く。僕はレジ前にあったガムを手に取り、財布を出そうとジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。
その途端――おじさんは訳の解らない声を上げて、レジカウンター向こうの扉に突進して行った。
唖然とした儘、僕は取り残された。
そしてレジ横の壁沿いに設置されていたアイスの売り場を見て、ああ、と声を上げた。ステンレス製の内壁に僕の顔が映っている。
この天気で外して忘れて行った友人のサングラスを遊び半分に掛け、先頃から猛威を揮い出したインフルエンザ対策にとマスクを掛けた、僕の顔が。
この姿で、傘だの剃刀だの、ともすれば凶器にも使用し得る物を探す僕を、おじさんは何と見たのか……。
……おじさん、強盗なら凶器位自分で調達してから来るって。
僕はガムの料金をレジ横に置くと、余りに心配性なおじさんの居る店を出た。
―了―
インフルエンザ……あれ、どうなったんでしょう?
ん~。喉元過ぎれば熱さ忘れる?
どこか薄暗い店内には商品陳列をしているおじさんが一人。近所には高校や会社もあるが、昼休みには遅く、帰宅時間には早い、そんな午後の中途半端な時間だからだろうか、客の姿は無い。なるほど、こんな時間帯だから店内は一人で大丈夫なのだろう。おじさんは僕に気付くと愛想のいい声で「いらっしゃいませぇ」と言った。
しかし、一対一というのは何故、こうも緊張感を生むのだろうか。
勿論疚しく思う事もないのに、何故か見られている様で落ち着かない。雑誌でも冷やかしながら雨宿り、という選択肢は既に僕の中で消え掛かっていた。
外は未だ降り出してはいない。だが、見た限りではいつ大粒の雨が路面を染めても不思議ではない暗さだ。
傘を買ってさっさと出るか――そう思って入り口近くの売り場を探すが、あのありふれたビニール傘の姿が無い。売り切れ?
僕は陳列を続けながらもずっとこちらの気配を窺っているおじさんに、声を掛けた。傘はありませんか?
「か、傘ですか?」何故か思いも掛けない言葉を聞いた様に、おじさんはどもった。
梅雨時でこの天候なのだ。コンビニとしても売り時ではないのか?
「傘はその……申し訳ありません。置いておりません」おじさんは腰を折る。
「ええ? 弱ったなぁ。普通置いてるでしょ、コンビニなんだから」今にも雨滴の落ちそうな空とおじさんを見比べて、僕は言った。本当に弱った。これなら此処に寄らずに帰宅を急いだ方がよかったかも知れない。
「大変申し訳ありません」おじさんのお辞儀の角度が更に深くなる。
それを見ていると流石にこちらも強くは言えない。小さい店だ。コンビニとは言え、こういう所もあるのだろう。仕方ない。急いで帰ろう。
しかし、おじさんは恐縮と言うよりも萎縮した様子で、未だ頭を垂れている。この儘帰るのも何だか、後味が悪い。別に要る物も無いが……ああ、そう言えば母さんに剃刀を頼まれていた。序でがあったらでいいから、と。
探す時間も惜しかったし、気まずさを誤魔化す心算もあって、僕はおじさんに訊いた。剃刀はどこですか?
「か……剃刀、ですか?」何故か先程よりもつっかえつっかえ、おじさんは言う。「も、申し訳ありません。置いておりません」
「ええ?」流石に眉間に皺が寄る。どんな小さな店でも置いてるだろう。普通。
「も、申し訳ありません!」おじさんは慌ててまた腰を折る。見れば肩が細かく震えている。おいおい、僕はそんなに怖い顔をしているか?
仕方ない。そうこうしている間にも雲は密度を増して行く。僕はレジ前にあったガムを手に取り、財布を出そうとジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。
その途端――おじさんは訳の解らない声を上げて、レジカウンター向こうの扉に突進して行った。
唖然とした儘、僕は取り残された。
そしてレジ横の壁沿いに設置されていたアイスの売り場を見て、ああ、と声を上げた。ステンレス製の内壁に僕の顔が映っている。
この天気で外して忘れて行った友人のサングラスを遊び半分に掛け、先頃から猛威を揮い出したインフルエンザ対策にとマスクを掛けた、僕の顔が。
この姿で、傘だの剃刀だの、ともすれば凶器にも使用し得る物を探す僕を、おじさんは何と見たのか……。
……おじさん、強盗なら凶器位自分で調達してから来るって。
僕はガムの料金をレジ横に置くと、余りに心配性なおじさんの居る店を出た。
―了―
インフルエンザ……あれ、どうなったんでしょう?
ん~。喉元過ぎれば熱さ忘れる?
ゆびきーりげんまん うそついたら はりせんぼんのーます
「って約束したんだから、嘘ついちゃだめなのよ? 理代」幾つになっても、幼い頃の話を持ち出して釘を差す頼子に、あたしはそっと溜め息をついた。
「解ってるって。嘘なんかついてないよ」
「じゃあ、昨日はどうしてサボったの? リハビリ、一緒に頑張ろうねって約束してたよね」
「うっかりしてたのよ。本当だって」針千本飲まされない迄も、百本位は棘が含まれていそうな視線の中、あたしは言った。「と言うか、あの約束、いつ迄有効なのよ?」
「何言ってるの。一生よ」きっぱりと言ってくれる。「それより、幼馴染みとの約束をうっかり忘れるなんて、酷ーい!」
「解った解った。今度なんか奢るから」
「そんな問題じゃないけど、まぁ、それで手を打ってあげるわ」
「……」あたしは盛大に溜め息をついた。それを見て笑っている辺り、もう頼子のご機嫌は治った様だ。
よくある他愛ない会話――これが鏡の前での、私の一人芝居でさえなければ。
幼い頃に事故で足を傷めて以来、苦しくて孤独なリハビリの中、私の心が作り出した友達――頼子。
でも、ねぇ、頼子? ううん、理代。
自分には嘘なんてつけないんだから、幼い約束なんて必要ないのよ?
―了―
短めに行ってみよう!
「って約束したんだから、嘘ついちゃだめなのよ? 理代」幾つになっても、幼い頃の話を持ち出して釘を差す頼子に、あたしはそっと溜め息をついた。
「解ってるって。嘘なんかついてないよ」
「じゃあ、昨日はどうしてサボったの? リハビリ、一緒に頑張ろうねって約束してたよね」
「うっかりしてたのよ。本当だって」針千本飲まされない迄も、百本位は棘が含まれていそうな視線の中、あたしは言った。「と言うか、あの約束、いつ迄有効なのよ?」
「何言ってるの。一生よ」きっぱりと言ってくれる。「それより、幼馴染みとの約束をうっかり忘れるなんて、酷ーい!」
「解った解った。今度なんか奢るから」
「そんな問題じゃないけど、まぁ、それで手を打ってあげるわ」
「……」あたしは盛大に溜め息をついた。それを見て笑っている辺り、もう頼子のご機嫌は治った様だ。
よくある他愛ない会話――これが鏡の前での、私の一人芝居でさえなければ。
幼い頃に事故で足を傷めて以来、苦しくて孤独なリハビリの中、私の心が作り出した友達――頼子。
でも、ねぇ、頼子? ううん、理代。
自分には嘘なんてつけないんだから、幼い約束なんて必要ないのよ?
―了―
短めに行ってみよう!
長い髪を梳く手を止めて、夏子はふと、窓の外に目をやった。
午後七時だというのに明るい――陽が長くなったものだと、夏子は殆ど狂いのない自然の暦に感心する。もう六月も半ば、夏なのだ。
もう少しすれば街は夏祭りの喧騒に包まれ、子供達は近付く夏休みに浮かれるのだろう。
どちらにせよ、自分には関係のない事だと、化粧台に櫛を戻して夏子は溜め息をついた。邪魔にならないように手早く髪を三つ編みにし、腕に力を込めて車椅子を回して鏡台から離れる。
この、脚の動けない私を誰が祭に連れ出してくれると言うのだろう――夏子は自嘲気味に嘯く――休みに浮かれるには……私は休み過ぎている、と。
五年前、ほんの十歳のあの日以来、彼女の脚は動かなくなったのだ。今では車椅子で殆どの場所には出掛けられるようにもなったけれど、やはり人込みは苦手だった。何よりも、周囲の人の哀れみを含んだ気遣いの視線が……。
幸い、両親はゆっくりと身体を癒せばいいと、彼女の好きにさせてくれていた。尤も、本当に癒すべきは心なのだと、誰もが解っていたが。
あの日からずっと伸ばし続けている髪を弄びながら、夏子は回想していた。
三年前、腰に迄届く長く美しい髪を自慢にしていた従姉と、夏子は自宅の三階の部屋で遊んでいた。彼女とは一歳しか違わなかったが、夏子は長身の彼女に憧れていた。何より、その長い髪に。
お姫様みたいだから、と無邪気に笑う夏子の、当時は未だ肩迄しかなかった髪を、従姉はよく撫でてくれた。
ラプンツェル――その長く美しい髪を育ての親の魔女によって、高く入り口の無い塔からの梯子代わりとされていた美姫。それを思い出したのは果たしてどちらだったか。
そして本当にそんな事が出来るのかという好奇心に、二人の少女は負けてしまった。
「夏ちゃん、身が軽いから、きっと大丈夫よ」
その従姉の言葉に、夏子は二階のベランダに置かれたエアコンの室外機の上に登った。幾ら長いと言っても子供の腰迄。真上のベランダから垂らしても、そうでもしなければ届かなかったのだ。
家族に見咎められないように注意しつつ、彼女は三つ編みにされた従姉の髪に手を伸ばし――従姉がしっかりと柵を掴んで足を踏ん張ったのを確認した上で、彼女はそれを掴んだ。
そして、半ば体重を預けた刹那、それはするりと彼女の手から滑り、掌に残ったのは三つ編みを留めていた髪ゴムのみ。そして彼女はバランスを崩した。
「夏ちゃん!!」従姉の悲鳴が耳を刺し、その顔が恐怖に歪むのが自棄にはっきりと見えた。
全身を覆う痛みを感じたのは、一瞬だった。彼女の意識は闇に落ちた。
目覚めた彼女を待っていたのは、下半身麻痺という宣告と、従姉がその責任を感じて自殺を図ったという報告だった。二つ目に関してはかなり後になる迄、彼女への告知は避けられていた様だが、いずれ知れる事と、両親は従姉の墓前に、彼女を連れて行った。従姉はその長い髪を切って、それをロープ代わりに首を吊ったらしい。
夏子はその墓前で泣き崩れた。あんな事をしなければ、自らの下半身麻痺も、何より従姉の死も起こらなかったのだ。
それを思い出すと、今でも夏子の瞼は熱くなる。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……」三つ編みを握り締め、夏子は呟く。「ごめんなさい、ごめんなさい……」
流石に陽が落ち、夕闇に包まれ始めた窓を見遣って、彼女はふっと、儚げな微笑を浮かべた。
「でも、もう少しだからね。もう少しで……お姉ちゃんに降ろして上げられる位、髪が伸びるからね……」
これで上がって来てね――と彼女は囁く。
そうしてまた、遊ぼうね……。
―了―
懲りてねー(--;)
ロングヘアーの皆様、夏場はどうしてますか?
午後七時だというのに明るい――陽が長くなったものだと、夏子は殆ど狂いのない自然の暦に感心する。もう六月も半ば、夏なのだ。
もう少しすれば街は夏祭りの喧騒に包まれ、子供達は近付く夏休みに浮かれるのだろう。
どちらにせよ、自分には関係のない事だと、化粧台に櫛を戻して夏子は溜め息をついた。邪魔にならないように手早く髪を三つ編みにし、腕に力を込めて車椅子を回して鏡台から離れる。
この、脚の動けない私を誰が祭に連れ出してくれると言うのだろう――夏子は自嘲気味に嘯く――休みに浮かれるには……私は休み過ぎている、と。
五年前、ほんの十歳のあの日以来、彼女の脚は動かなくなったのだ。今では車椅子で殆どの場所には出掛けられるようにもなったけれど、やはり人込みは苦手だった。何よりも、周囲の人の哀れみを含んだ気遣いの視線が……。
幸い、両親はゆっくりと身体を癒せばいいと、彼女の好きにさせてくれていた。尤も、本当に癒すべきは心なのだと、誰もが解っていたが。
あの日からずっと伸ばし続けている髪を弄びながら、夏子は回想していた。
三年前、腰に迄届く長く美しい髪を自慢にしていた従姉と、夏子は自宅の三階の部屋で遊んでいた。彼女とは一歳しか違わなかったが、夏子は長身の彼女に憧れていた。何より、その長い髪に。
お姫様みたいだから、と無邪気に笑う夏子の、当時は未だ肩迄しかなかった髪を、従姉はよく撫でてくれた。
ラプンツェル――その長く美しい髪を育ての親の魔女によって、高く入り口の無い塔からの梯子代わりとされていた美姫。それを思い出したのは果たしてどちらだったか。
そして本当にそんな事が出来るのかという好奇心に、二人の少女は負けてしまった。
「夏ちゃん、身が軽いから、きっと大丈夫よ」
その従姉の言葉に、夏子は二階のベランダに置かれたエアコンの室外機の上に登った。幾ら長いと言っても子供の腰迄。真上のベランダから垂らしても、そうでもしなければ届かなかったのだ。
家族に見咎められないように注意しつつ、彼女は三つ編みにされた従姉の髪に手を伸ばし――従姉がしっかりと柵を掴んで足を踏ん張ったのを確認した上で、彼女はそれを掴んだ。
そして、半ば体重を預けた刹那、それはするりと彼女の手から滑り、掌に残ったのは三つ編みを留めていた髪ゴムのみ。そして彼女はバランスを崩した。
「夏ちゃん!!」従姉の悲鳴が耳を刺し、その顔が恐怖に歪むのが自棄にはっきりと見えた。
全身を覆う痛みを感じたのは、一瞬だった。彼女の意識は闇に落ちた。
目覚めた彼女を待っていたのは、下半身麻痺という宣告と、従姉がその責任を感じて自殺を図ったという報告だった。二つ目に関してはかなり後になる迄、彼女への告知は避けられていた様だが、いずれ知れる事と、両親は従姉の墓前に、彼女を連れて行った。従姉はその長い髪を切って、それをロープ代わりに首を吊ったらしい。
夏子はその墓前で泣き崩れた。あんな事をしなければ、自らの下半身麻痺も、何より従姉の死も起こらなかったのだ。
それを思い出すと、今でも夏子の瞼は熱くなる。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……」三つ編みを握り締め、夏子は呟く。「ごめんなさい、ごめんなさい……」
流石に陽が落ち、夕闇に包まれ始めた窓を見遣って、彼女はふっと、儚げな微笑を浮かべた。
「でも、もう少しだからね。もう少しで……お姉ちゃんに降ろして上げられる位、髪が伸びるからね……」
これで上がって来てね――と彼女は囁く。
そうしてまた、遊ぼうね……。
―了―
懲りてねー(--;)
ロングヘアーの皆様、夏場はどうしてますか?